2015年11月1日日曜日

The Moderate Soprano

30/10/2015 19:30 @Hampstead Theatre

ロンドンから南に抜けた郊外の田園地帯に、グラインドボーンという場所がある。
そこには、夏の間だけオペラが上演される「個人の敷地に作ってしまった」オペラハウスが建っている。
立てた当初はキャパシティ300人という、型破りに小さなオペラハウスだったという(今は1200人)。
昼間から盛装して郊外のオペラに出かけるというのが、ロンドンに務める日本企業の駐在の間でも「一度はやってみたいことの一つ」のように言われていたことがあった。

この芝居は、その、自分の持つ地所にオペラハウスを建ててしまった男の話である。
Modest Sopranoというのは、彼の妻のオペラ歌手を称して、「柔らかな声質の」という意味で使っている。一方で、moderateというのは「まぁまぁの歌い手」という意味にもとれる、そして彼の妻は実際まぁまぁの歌い手でしかなかったのだ。
だから、この芝居は、John Christieというオペラ好きの男が、好きが昂じて声質がどんぴしゃ嵌まったソプラノ歌手に入れ込んでしまうこと、その歌手と結婚した後に、自宅にオペラハウスを建ててしまったこと、について描いた芝居、ということになる。

このJohn Christieという男は、少なくとも舞台上では、著しくバランスを欠いた男として描かれている。半端なく金持ちで、いばりんぼうで、スピード狂で、ワグナー好きのモーツァルト嫌いで、一度言い出したら人の意見は聞かないくせに、奥さんにはぞっこん入れあげているからその言うことだけは聞き入れてしまう。
そういう著しくバランスを欠いた男の、バランスを欠いた執着・オブセッションを、David Hareは、105分一幕の芝居の中で、何ともバランス良く描ききっていた。その技量に感服した。

実は、ごくごく最近まで、勉強不足で、David Hareという名前は知らなかったのだ。東京でやってるナショナルシアター公演の映画館上映で、Skylightっていう芝居が妙に評判が良くて、「どんなもんなのかね」位に思っていたら、実はHampstead Theatreで新作を上演するんだと知って慌ててチケット予約しようとしたら既に売り切れ。
リターンを待ってギリギリのタイミングで再チャレンジしたら運良く席が取れた、という顛末。

Hampstead Theatreがこの大作家の新作を上演出来ることになったのは、David Hareがこの近所に住んでたからだとどこかに書いてあったが、このハムステッド界隈も、サセックスのグラインドボーンに負けず劣らずミドルクラス(直訳すれば中流だが、実際は、金持ちの上流の人たち)の牙城であって、案の定劇場に行っても金持ちの老夫婦、話す英語も綺麗で態度も大変鼻持ちならない、みたいな方々がたくさん来ていたのだ。うーむ、そういう層にアピールする芝居となると、相当甘ったるいんじゃないかと心配になったのだが、さにあらず。これは、鼻持ちならなさとか、そういう意味も含めてバランスを欠いた人と、それを取り囲む世界との折り合いの話であって、金持ちとかそうでないとかいうのは、「史実がそうだったから」ついてきたおまけでしかない。

だから、成功した作家が書いた金持ちのドリームの話だから、現代UKの観客にとってのレレヴァンスに欠けるとか、そういう批判は当たらないだろう。色んな地域や色んな人が観て、色々考える芝居だと思うのだ。

僕は、この芝居を観ながら、やっぱり自分の自宅を芝居小屋にして、借金抱えたまま丸ごと息子に芝居小屋を譲り渡して、その建物の5階に住んでいた日本人のことを考えていた。あの人も、バランスのとれてない人だったなぁ、と考えていた。Christieには、ある意味バランスのとれた小屋番や音楽監督やプロデューサー(後のNY Metropolitan Operaの支配人になった男)がついていたが、その日本人には、すごいキャパシティを持った妻とバランスのとれた息子がいて、その後、なんとかかんとか乗り切ってきた。ただその息子も、16歳で世界一周単独自転車旅行に出かけちゃったり、自宅の地下に稽古場作っちゃったり、他の意味でバランスとれていなかったりするんだけれど。

その、著しくバランスを失したオペラへの愛と妻への愛が、バランスを取らないまま頂点に達する「こけら落とし」に焦点を絞っていく展開が素晴らしい。
また、上演した演目を妻に語り聞かせる夫の台詞が、観客の笑いを誘いながらも、いや、だからこそ、とてつもなく悲しい。

そういったシーンも上手く盛り込みつつ、Christieのバランスを失した生き方をバランス良くまとめて、Hampstead Theatreというある意味こじんまり纏まった小屋で1時間45分の芝居にした、という時点で、この芝居はウェストエンドの派手目な芝居でありがちな「大きな物語」を、おそらく、あきらめている。その意味で、Moderateな芝居である。それでよいのだ。コンパクトに纏まった芝居は、かならずしも想像力のスケールの小ささを意味しないのだから。それは、僕の知ってる、日本に建った自宅兼芝居小屋でも同じことだ。小さな小屋、小さな芝居、そこから大きく想像力がジャンプできるということは、もう、みんな知っている。

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