2015年6月14日日曜日

The Father

06/06/2015 ソワレ @Tricycle Theatre

「父」の記憶が混濁していく過程を、「ほぼ一人称」に拘り、時として「父の記憶」を混濁したまま載っけてしまう戯曲の構造だけでなく、配役の混濁、舞台、照明、幕間の音楽、スタッフワークの全てを駆使して舞台に載せていた。「物語の筋」自体はリニアで特段奇抜ではないのに、舞台への乗せ方次第で、90分間、飽きずに観ていられるのだ。

KilburnにあるTricycle Theatre、キャパ200人程度の居心地の良い空間。瀟洒なパリのアパート(パリだから、アパルトマン、か)の一室。白壁、舞台奥の白いパネル、書棚、左右に一つずつ出入り口。舞台下手から自然光が差し込んでいるという設定。
と、気がつくのが、舞台上、天井が吹き抜けておらず、真っ白の天井が被さっている。また、敢えてプロセニアムを強調する舞台前面の四角なフレームは、青白いLEDで縁取りされている。この、天井と舞台前面、後ろパネルで囲まれた空間は、一種、「父」の脳内空間の縁取りとなっている。

冒頭の導入場面。認知症の兆しを示す父と、心配性の次女の間の、一種ありきたりな会話。ちょっと「あ、ありきたりな芝居に来ちまったか」と疑う。

が、その直後の暗転。ピアノの小曲がかかるのだが、針飛び、繰り返し、クリックノイズ。「うん?」と思う。

この、ありきたりに始めておいて、うん?と思わせて、それが、舞台の進行とともに徐々に加速し、エスカレートしていく、その手管にうなる。
アパートの調度が微妙に変わっていく。失せる家具、加わる家具。暗転中の音楽の繰り返し、クリックノイズ。同じシーンの繰り返し?それとも回想シーン?「父」の台詞や「父」が聞く台詞は、すぐ後のシーンで言っていなかったことになり、聞いていなかったことになり、果てには登場人物が入れ替わり、同じ会話が「違う相手との間で」繰り返される。これは現在進行の出来事なのか、繰り返しなのか、「父」の脳内の記憶の再生なのか。

観客も、舞台上の出来事が「父」の認知症の進行とリンクしていることは理解している。でも、それが、「父」の病状を神の視点で目撃しているのか、「父」の脳内の記憶再生を追っているのか、それとも、介護する側の人間として存在する「次女」の主観が介入しているのか。そのヒントは与えられない。その辺りの時間の進行の「行きつ戻りつ」の取り扱いは見事で、この戯曲が2014年にフランスで立派な賞をもらった(Moiere賞がどれくらいすごいのかは僕には分からないけれど、モリエールってくらいなんだからきっとすごいんだろう)というのは頷ける。

まてよ、こんな芝居、日本でもなかったっけ?そう。岩井秀人さんの「て」。でも、「て」では、おばあちゃんの視点からの時系列は追っていない。その分、主観のズレが観客からも分かりやすく出来ていたなー、整理しやすかったなー、と思ったりする。
この"The Father"が超絶技巧で複数の視点の混在をそのままにして引っ張っていくのに長けているとして、ただし、その代償は、おそらく、「最後はこうなりまっせ」的な、一種観客が安心できるようなラストシーンなのだと思う。そうでないと、お年を召した観客は完全に置いてきぼりのまま、劇場を出て行かざるを得ないと思うから(実際、終演直後、近くに座ってた老婦人が、連れに向かって、なんだか追うのが難しかったわよね、とおっしゃっていたし)。
だから、ラストシーンには大いに不満が残る。相当程度、「父の面倒を見る人々」に寄った視点に収束させて、観客を安心させに行ってしまった。が、それを差し引いても、相当レベルの高いプロダクションであることには間違いない。充実の舞台だった。

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