2015年12月8日火曜日

Here We Go

25/11/2015 19:00 @Lyttleton Theatre, National Theatre

3場、45分間の短い作品だが、間違いなく傑作。

以下、ネタバレではあるが、ネタバレによってこの芝居の面白さはいささかも損なわれないと考えるので、以下、そのまま記す。

1場は見たところ葬儀の後、参列者による切れ切れの会話。ツイート「囁き」とでも呼べそうな会話で紡がれているような、そうでもないような。「死後、死者本人とは関係ないところで展開される出来事」を思わせる。
2場は暗闇の中での老人の独白。「死の瞬間。この世とあの世の境目」を思わせる。
そして3場。老人と介護士。ベッドと椅子。パジャマから外出着に着替え、ベッドから椅子へと場所を移り、そこで外出着からパジャマに着替え、椅子からベッドへと場所を移り、そこで着替え、場所を移り、着替える。その繰り返し。溶暗。

1場/2場でも明確なコンテクストは排除されているが、肝となるのは3場。このシーンの存在が、その前の2つのシーンのコンテクストを一気に混濁させるからだ。
1場/2場は曲がりなりにも観客としてコンテクストを与えやすく出来ている(「死後」と「死の瞬間」)のだが、3場はそうはいかない。
3場は、生でもあり死でもある。僕らは役者の生きた身体が舞台上で動くのを観る。演じられる老人も生きているものとして着替え、歩く。でも、どこにも進まない。一言も発しない。しかも、毎回毎回、逐一同じ段取りで着替えを遂行し、移動し、同じ動きに顔をしかめる。外界の人=観客にとって、何らアウトプットを発しない老人は、まさに「死んでいるも同然」である。いや、しかし、一方で、老人は生きている。実際、役者も生きている。芝居はナマモノ、というクリシェが、こんなに直截に発揮されることはない。動いている以上、死んでいない。
彼は、何もアウトプットしていないけれども(死んでいるけれども)、一体、彼(生きている脳)の中では何が起きているのだろうか?

そこで、僕の想像の回路は1場と2場に向いて開く。
妙に脈絡に欠けた、明確なコンテクストを与えられているようでロジカルでない2つのシーンは、ひょっとすると、老人の内面で起きている(と、老人が考えていることがら)なのではないか。だからこそ、1場の人々の会話は時に途切れて、あたかも「誰かその場にいない人に向けて」語られる瞬間が紛れ込んだり、2場の老人の独白は妙に芝居がかった、面を切った独白になっているのではないか。1場と2場の歪んだ三人称と一人称の芝居が、3場の「生と死の間」に絡め取られて、一つの絵が出来上がったように思われた。

ヨイヨイの老人の一連の無言の動きから、その中で無限に続く不毛な想いの断片を引きずり出してきたのではないかと思われてくる。それは、とても残酷なことだ。
それは、老人に限らず、死んだように生きている人たち、これから自分に訪れるであろう死について考える人たちにとって、とてもキツいメッセージである。
僕らがいかに死後のこの世(生者による会話)やあの世(三途の川の手前)を考えてみたところで、そんなものはアウトプットされることはないし、外から見えるのは日常の繰り返し、もしくは、腑抜けたように見える老いた身体だけだ。
ここには、将来に向けた「明日への希望」「将来への希望」は一切示されない。キツい。

多田淳之介の「再生」は、やっぱり繰り返しの末に死んじまう話だけれど、でも、その繰り返しの中に、(つかの間ではあっても)生の祝祭の繰り返し(再生)があり、reincarnation(再生)への希望がある。このHere We Goにはそれすらもない。
この間rinoのツイートにあった「ヨーロッパには過去があってアジアには未来がある」という言葉を思い出す。
このHere We Goに未来があるとはとても思えない。でも、そこには、未来がないという現実を抉り出す凄みがあって、震えた。

45分の上演時間の間に、途中退場する人たちが何人もいたし、3場の繰り返しで、繰り返しが起きると、そこで途中退場する人たちや、"Oh no"と言ってみせるご婦人や、他人に聞こえるように苦笑してみせる人が、たくさんいた。
それは、この芝居がキツいから、自分を誤魔化そうとした人たちだったのだろうと思っている。
もちろん、なんでそんな態度をとったのか説明を求めたら、イギリス人のことだからその都度もっともらしいことを言うのだろうけれど、でも、きっと誤魔化しだ。

そういう人たちに対して、この芝居は開かれている。1場に立ち戻って、登場人物(生者たち)が口にする「わたしは、○年後、こうやって死にます」という言葉。その言葉を発する生者の立ち位置が、老人の死についての芝居を観ようとする観客の立ち位置と重なる。自分たちがどのような形であれ死に向かっていること(あるいは既に死んだも同然であること)を思い出させる明確な機能を持つ、誤魔化しを認めない、観客に向けられた呪いの言葉なのだ。

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