30/08/2015 16:00 @Queen Dome, Pleasance Dome
エディンバラを離れてから、何日か経っても、じわじわと「あぁ、あの芝居はとても良かったなー」と思えてくる芝居があって、
これがその一つ。
若い夫婦の、出会いとセックスと死産とそれからのこと。俳優2人の語り芝居。
冒頭、二人のセックスについての相当微に入り細に入った語りから始まる。前戯の語りに5分は軽くかけている。もちろんその続きもある。
それが、全くエロくない。指の動き、女性の身体の反応、それをどう捉えるか、彼女がどんなアクションに出るのか、
すっごく細かく語っているのに、全くエロくない。
そう感じられた原因は、僕にあるのか役者にあるのか、それとも台本にあるのかは分からないけれども、少なくとも、このエロくなさは、
作品全体にとってとってもポジティブなことで、
というのは、この芝居は、
エロ話の観客サービスでも、観客にエロい感情を催させるためのものでも、難しい話をエロに包んだ小咄仕立てでもなくて、
極めて正直に、真っ直ぐに、若いカップルのコミュニケーション、その不全、それとセックスとの関係、無関係、無意識の権力関係、暴力、優しさ、冷淡さ、無関心、鈍感さ、敏感さ、わがまま、気遣い、そういったものを、織り上げた作品になっていたから。セックスの語りも、その全体の織り上がりの中にしっかりと組み込まれてすっごく大事な一部分として機能している。だから、「冒頭にセックスの極めて詳細な描写があること」は、エロくない意味で、すごく大事なことなのだ。
同じことは、すごく早い時期に破水してから死産に至るまでのことを語るシーンも同じ重みでそうだし、ハリウッド恋愛コメディの出来損ないみたいな出会いのシーンもそう。大事なことは、言葉で語られことも多いし、言葉がミスリードすることも多い。言葉で語られないことがボディランゲージで語られないこともあれば、そのためにミスコミュニケーションが起きることもある。思いは思っているだけでは伝わらない。それは、当たり前。だから、言葉のコミュニケーションも含めていろいろなサインがいろいろな階層で交わされる。でも、伝わらないものは伝わっていないのだ。
その2人のコミュニケーション・ミスコミュニケーションを、観客は神の視点で(すなわち、2人がお互いに言わないこと、が聞こえるように)眺める。それは、切ないことだ。なぜならば、そこで起きていることを自分がどう捉えたかについて、隣の観客やパートナーに伝えられるのかについて、ひょっとして・・・という疑念無しにはいられないからだ。そして自分のぎこちない・ぎこちなくないセックスが一体何なのかを考えざるを得ないからだ。もちろん、それは、セックスに限らないのだけれど。
俳優2人の演技が真摯で、余計な小芝居なしなのが、すごく良い。
男優が右腕に障害を持っており(右腕が短い)、女優が両耳に補聴器をつけていることは、極めて高い彼らの演技の質や、芝居の本筋とは関係ない。ただし、いわゆる健常者の観客に、自らの本当に不自由な部分がどこにあってどこが自由なのかを意識させる装置としては、絶大な威力を発揮していた。
舞台上、ベッドがこちら向きに垂直に立っていて、「寝ている」役者2人が実は垂直に立っていたりするのだけれど、従って、開演前は「垂直ベッド上の小咄集だったらどうしよう」という危惧も覚えたのだけれど、杞憂だった。そこにベッドを置いてあることの意味も、きちんとあるのだった。
極めて良質なプロダクション。次の作品も、是非観てみたくなった。
0 件のコメント:
コメントを投稿