チラシには
「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか?」
とあり、
「本作品は林真須美被告を真犯人と特定して書かれたものではありません」
とある。
僕は、この事件の騒ぎの間、日本に居なかったので、他の観客が共有しているバックグラウンド、あるいは、作演出者が、「共有しているだろう」と前提しているバックグラウンドが欠落しているところがあったかもしれませんが、以下、その前提で。
とても切なくなる芝居でした。「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか」なんて、本当は、分かる訳ないんです。
分かる訳ないんだけれども、それが分かっていて、なお、転位の芝居は、その分かるか分からないかのギリギリのX軸まで、漸近線を引いていく。
それは丁度、演じる役者と演じられる配役が、本当は全く関係の無い2つのものであるのと一緒だ。「迫真の演技」という使い古された言葉があるけれ ど、本当にその通りで、「真」に向かってどこまで漸近線を引いていこうとも、真になる訳が無い。なったと信じた時点で頭がどうかしている。
だから、芝居の中でいくら突き詰めていっても、本当の真実は見えない。その点について余りにも無自覚だったり楽観的だったりする芝居(や観客)が溢れる中で、転位の芝居は余りにも自覚的で、かつ悲観的だ。
辿り着かないのが分かっているのに、そこに向けて歩まざるを得ない、その、駆り立てる何かが、とても切ない。
いい芝居でした。
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