2006年10月1日日曜日

新国立劇場 アジアの女

岩松さんを観に行くのだ、と、自分の中で言い訳をして観に行きました。
作・演出の長塚氏は、「今をときめく」阿佐ヶ谷スパイダースの方で、第一線の方で、かたや、当方10年間日本の芝居を観ていないし。
ひょっとして、何だかカッコ良さそうな劇団の名前からして、あぁ、お洒落なスカした芝居だったらどうしよう、とか、いろいろ、余計なことを、失礼ながら、観る前に考えていた訳です。

岩松さんの舞台を見るのは「お父さんのお父さん」以来。自分の口に合わない芝居だったら、岩松さんだけみてればよい、と思っていました。

が、あにはからんや、良い芝居。

きちんとしていました。いろんな意味で。
富田靖子の演技で、なぜか、石橋蓮司を思い出す。役者の立ちを観ていて、(似てるというわけでもないのに)唐組を思い出す。もちろんアングラではなくて、「今」のお芝居なのですが。岩松さん、かっこよい。

もちろん、ストーリーで引っ張る分、たるい所もあるが、それは言わない約束だろう。2時間、楽しみました。

公演後のトークでも、皆さん、きちんとしていました。
富田さんが「てにをはが言いにくくて」と言っていたが、そのように、違和感を味わいながら台詞を言ってるのか、うらやましいぞ。あ、そこのところが石橋さんに似てるのか?
(←本気でこんなことをいってしまって、世間様を怒らせないか、とも思うが、でも、そう思ってしまったので、書きます。勝手に、アホーと思ってください。そういえば、石橋さんももう12年くらい舞台で観ていない...)

で、あえて難癖をつけるとすれば。
ラストはセンチに過ぎる。
公演後のトークで言っていたように、「色んな解釈を観客に任せてよい」というのであれば、ラストは要らない。まさに観客に任せる部分ではないか。
あと、「アジアの女」で無くても良いですよね。あるいは、タイトルが先に決まっていても、それに関係なく芝居作っちゃっても良かったような気がする。
もう一つ。舞台が広いので、役者と役者の距離が遠い。僕のように小さい芝居を見つけた人には、ちょっと不自然に遠かったです。もうちょっと小さい小屋で見たい。

と、まあ、こんな感じですが、こういうきちんとした、かつ、センチな芝居を作る長塚さんは、一体「いい人」なのかなぁ、と。是非また、彼の手になる別の芝居を観てみたい、と。
イヌの日、楽しみにしております。

(以下、10月7日の追伸)
岩松さんを狂言回し=物語を発見していく人、として位置づけるのは、ある意味作者にとって楽しい作業だし、実際に岩松さんの演技すばらしく、分かりやすく見れた。けだし、扇田氏の劇評で「ほとんど主役のよう」である。
でも、それ、やっぱり、ぬるくないかしら?
だって、物語を説明しちゃうわけでしょう?そもそも観客が物語を発見しなきゃなんないはずなんだから。その種を蒔くのが富田靖子さんだったはずなんだよね?
だって、今のままじゃ、岩松さんの存在自体が説明台詞になっちゃったりしないのかしら?
・・・でも、やっぱり岩松さん、面白かったんですよね。こういうの、ギルティ・プレジャーっていうのだろうか?

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