坂手さんは、僕が芝居と関わる態度を形成する中で、かなり重要な一言を僕に投げかけた人で(多分1989年ごろ。ご本人は全然覚えてないと思いますが)、その頃からその政治意識と舞台への意思と取り敢えず走ってみる、という態度は、常に一種敬意の対象となってきました。
今日、2日目。客席のオバサン指数は、100点満点で5万点くらい。かなり戸惑う。
だが、竹下景子さんが出ようと、渡辺美佐子さんが出ようと、坂手節は一つも変わらない。青年団を静かな芝居、岩松さんを神経症芝居と呼ぶならば、坂手シュプレヒコール芝居は変わらない。
全篇役者が叫んでる、ってことじゃないですよ。
「言いたいことを全て舞台の上に、台詞の上に、のっけてやろう。感じたことを、考えたことを、とにかく全て舞台という拡声器を通して叫んでやる。伝えきれないことは分かってても、咽喉が枯れるまで叫んでやる」
という態度が、僕なりに定義するシュプレヒコール芝居の真髄です。
これって、舞台に載せられている発想やモチーフの量があれだけ大量だと、かなり乱暴なゴール設定で、実際、芝居も乱暴かつ風呂敷畳めてない。
でも、坂手さんの頭に渦巻いているものが、妙に整理されないままのっかってる、そこにカッコつけもスタイルも要らない、という意思表明が気持ち良い。
観てる最中に「何で芝居というメディアを使うの?」という疑問が沸いてくる。それを力技で2時間20分押しまくる。
人に薦められる完成度、ではないけれど、
一種Guilty Pleasureなところがある芝居でした。
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