いきなり、役者陣の芝居芝居したセリフや面切り百連発に戸惑う。なぜ、宮沢さんはそんな演技を役者にさせるのだろう?
劇中劇に清水邦夫さんの戯曲が引っ張ってこられて、それらの台詞が、今、21世紀の東京でリアリティを持つのはすごく大変だな、と思う。
なぜ、宮沢さんは、わざわざそんなものを舞台に載せるのだろう?
半分を過ぎたところで、役者が、
「長ゼリって、一体誰に向かって話してるんだろうね?」
「芝居の中の音楽って、どこで鳴ってるの?」
と、今更ながらの突込みを入れる。
演出家役の上杉氏、「お前らのそういう賢いところが気持ち悪い」と言う。
なぜ、そんな自己完結したやり取りをわざわざ舞台上で説明するのだろう?
なんてことを、二日酔いの頭で考えながら観ていた。
で、この芝居の観方として成り立ちうる幾つかの類型。
① 遠く日本を離れた異郷で、時空を超えた友情がよみがえる。現代のお化け話、おとぎ話。ちょっといい話。
② Velvet Goldmine が変節しちまったDavid Bowie の大断罪映画だとすれば(くわしくは本田透氏のこのコラムを参照
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これは、70年代以降大先生になっちまった蜷川幸雄氏の大断罪芝居である(日経の劇評パターン)
③ この芝居は、かつての時代の空気にあってはリアリティを持ちえた戯曲の言葉が、いまや時代とのリンクを失いつつある、その働きを鵺に例え、日本の芝居人の来し方行く末を見つめなおそうとする試みである(当日パンフそのまま)
④ この芝居は、全篇、1演出家の妄想の世界である。或いは、昔日のアングラスターの死の直前の、一瞬現れて消える妄想の世界である。そのどちらか(2つの妄想が交錯して現れたものではない)。
妄想の中で「現実」とみなされる人の動き、話し方は、「演出家(本当は役者かもしれないが、以下、演出家で統一)」が世界とコネクションを試みる中での現実なので、演出家が外界に求めるようにしかならない。すなわち、芝居がかっている。
その態度が本当の現実世界との中でリアリティを持ちえず演出家が苦しむのと同様に、清水邦夫の戯曲の言葉もまたもがき苦しむ。
シアタートラムに居る観客は、そのなんとも苦痛に満ちた、しかも決して解決されることの無い苦痛を、妄想を観るもう一人の演出家自身として体験する、という構造。
・ハンディカムで記録をとり続ける男は、妄想の登場人物達が自分達が現実であることを殊更に強調するための道具たてである。テープを入れ替える 間、彼らが演技をやめるのは、「全く最近の連中はいつもカメラ目線で困る」ということを匂わせるためではなく「役者たちの振る舞いが何らかのフレームに収 まっていることを示唆する仕掛け」として使われている。
・役者たちの自分突っ込みは、妄想・夢の中の「これは夢だかんね」という自分説明の代用として使われている。
→ 1人の男の非常に特殊な妄想のありようの中で、この男の外界の捉え方のメソドロジーをとことん剥ぎ取ったところで、この芝居のリアリティが普遍として観客に迫ってくる仕掛け。
僕は、途中、④の観方に辿り着いたところで、最初の3つの疑問(本当はもっと色々あったが)が解けて、この芝居を楽に観れるようになりました。それまでは、色んな疑心暗鬼が渦巻いて、大変だった。
観終わって、とても満腹感がありました。言い方を変えれば、疲れた。とてもよく考えられている芝居。頭を使う芝居。
でも、少なくともこの芝居は、あんまりエンターテイニングには受け取られないのではないだろうか。
まぁ、読み返してみると、かなり僕の観方もひねくれまくってますが。個人的にはこう読み解かないと納得いかなかったです。
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