2008年6月8日日曜日

SPAC かもめ・・・プレイ

07/06/2008 ソワレ

新宿西口からバスで3時間、静岡は舞台芸術公園まで日帰りで往復。ブラジルからやって来た「かもめ」+会場前のブラジル料理屋台。言った甲斐はと問われれば、楽しかった、と答えよう。でも、魂を揺さぶられたりするような経験とまではならなかった。

一番印象に残ったのは役者達の余裕、緩さ、それに伴う強さ。開場すると既に稽古場に見立てた舞台上に役者達がいて、そこから観客席をぐるりと見回す余裕にまずは恐れ入る。

この、「稽古場」という状況設定はなかなかイカしていて、
・ 「かもめ」そのものがそもそも劇中劇を持っているので、稽古場を入れると全体の入れ子が「劇中劇中劇」にできる。その行き来が、単純に面白い。
・ クサい芝居に入り込んだ役者を、他の役者がニヤニヤして眺めていることが出来る。役者が「演じる」あるいは「演じることを演じる」ことに対する抑止力が、芝居の構造の中に用意されている。
・ 役柄を固定しなくて良い。1人3役、3人1役、その辺りをゆるーく組みまわすことが出来る。役者の身体をテクストに縛らなくても、場として成立させることが可能になる。

そうやって、舞台の上に色々なズレを生じさせようとしていたように思われる。
そういう問題意識は、おそらく、日本の現代演劇にも共通のものだと想像された。

ドライヤー=銃、トマト=脳味噌、盆栽=ヘルメット=かもめ、杖=骨、といった見立てのオンパレードは勿論楽しいし、ラジコンヘリコプターやマックを使ったプロジェクター等、ガジェットもたっぷり。そういう遊びの要素がふんだんに織り込まれているのも楽しくて、観客を惹きつける。

何だけれど、そういうガジェットものの使用や、「役者」がテレビの仕事について話したりするくだりは、どうも、「かもめを現代に近づけて解釈してみよう」というありきたりな試みと紙一重で、これに、ラスト近く、
「あ、これ、役に入れ込んじゃってるよ」
と思わせる部分と重なると、ちょっと苦しい、というか、折角の「クサくならないために嵌められたフレーム」に台無し感あり。やはり、ぐっと入ってはいけないのだ。

なので、最後まで見通した印象は、この芝居、(陳腐な物言いで恐縮ながら)脱構築ではなく、再構築に近いな、ということである。おんなじことを日本の若い演出家が思いついていたら、もっと過激でシャープな芝居になっていたのではないかと思われた。

一方で、そこら辺の緩さが強みなのかもしれない、という印象もある。これくらいの緩いつくりだからこそ、本番中に客席が壊れたり、舞台袖に入って行っちゃうお客さんがいたり、大きな蛾が舞台を横切ったり、観客席でフラッシュたいたり携帯を耳に当てたりしてても、芝居が壊れることなく最後までグルーブできちゃうのだろう。

同じ問題意識を持っていても、方法論だけで突っ走るのではなく、うまくゆるく組み立てることで、より広い観客を惹きつけながら芝居の醍醐味を味わえる舞台に仕上げることが出来るってことか・・・うーん、なんだかお勉強みたいになってしまった。

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