18/05/2008 マチネ
芝居というのは、「伝える」ものであるというよりは、むしろ「分からなさ・伝わらなさ」を舞台に載せてみせる行為ではないか、と考えている。そこに載せられたものをどうとるかとか、それについてどう考えたりするのかは、観客に任されるべきものである、と。それを前提として。
この「シンクロナイズド・ウォーキング」は、身体の不自由な人とまあ不自由でない人が出てくる話である。
人間、特に身体に不自由が無くとも、なんともコミュニケーションというのは不自由なもんやなあ、と常に感じているものであって、さらに、身体に不自由のある人となると、「上手く聞き取れないよ」とか「この人、俺の言ってることを理解してくれてるのかなあ」とか、お互いに感じることが、更にあからさまに多いはずなんである。
それは、日本に来たロシア人も、コスタリカに行った日本人も、脳性まひの人と初めて話す人も、銀行員からローンの説明を初めて受ける人も、みんなコミュニケーションの不自由を感じるのだけれど、程度の差はある、位の意味である。
この話に出てくるのも、マラソンランナーや中国人不法滞在者や進行性の筋ジストロフィー患者や脳性マヒの主人公やヤクザやホームレスだったりする。お互いのことは、最後のところは、分からないよ。その分からなさ、あるいは、どうやってその分からなさと折り合いをつけるのか、をどう舞台に乗っけるかが勝負、だったのではないかと思う。
で、そういう「分からなさ」を舞台に載せるのには、燐光群の役者たちの演技は、あまりにも、
「自分たちが考えていることが観客に伝わるに違いない」というナイーブな楽観論に溢れている気がしたのである。言葉で伝えきれない部分は、表情で読み取ってもらって補ってもらうしかない。表情も読みにくいのなら、もっと頑張ってもらうしかない。どんなに頑張ったって、分からないものは分からない。だからドラエモンに出てきてほしい。まさにその通り。
でも、リアルにドラエモンがいないのとまったく同様に、劇場にもドラエモンはいない。いかに独白したって、サスを当てたって、「乗り越えました」という顔をしたって、分からないものは分からない。そこを伝えようと声を張るくらいなら、最初から、観客に任せる、でも、思いっきり身を乗り出して分からないなりに考えてもらう、そういう枠組みに観客を誘い込んだほうがよっぽどか面白いのではないだろうか。と、そういうことを思いながら、2時間観ていた。
あ、そうだ。「伝わらないこと」を捨象して「伝わる」ことをアプリオリに前提しているから、芝居の中での英語のシーンもあんなにぞんざいに感じられるのか、と思いつく。
だから、同じ「しょうがい者」が舞台に乗る芝居であっても、真っ当で、過激で、僕を(作家の意図に沿ってるかどうかはクソくらえな所で)感動させる強力な芝居を生み出したこふく劇場と今回の燐光群とでは、その力強さにおいて差が歴然としている。テーマ・着想自体はもっとインパクトを持ちうると思うし、そこに妙な虚構を入れ込もうなどとは微塵も考えていない態度にも好感持てる。でも、そこまで考えておきながら、なぜこの演技?と、正直に言う。
まあ、でも、「分かること」に対しての楽観主義は、実は、坂手さんの一つの「美徳」なのかも知れないんだよな。あの、みょーな前向きさ加減は。
0 件のコメント:
コメントを投稿