2008年5月9日金曜日

東京デスロック ワルツ マクベス公開ゲネプロ

08/05/2008 ソワレ

とっても楽しい舞台だった。

ド頭、石橋亜希子が出てくるときの歩きにくいような突っ放したような歩き方を観て、「これは凄くなる」と決め付けた。
永井秀樹、いっつも「いい役者」なんだけど、「かっこいいじゃん」とか「すっごい役者じゃん」と素直に思えるのって、何故か多田演出の時だ。相性が良いのか。
佐山和泉の「くるくる」シーンは、素直に美しい。
でも、他の役者にも悪いが、やはり一番痺れたのは羽場睦子さん。後半、彼女が踊りだした瞬間は涙こぼれるかと思った。

どこを味わっても大丈夫な芝居空間が目の前に提示されているというのは、まさに至福の状態で、多田淳之介、「実験的」とか何とか言ってはいるが、実は驚くほどエンターテイニングなのである。それが良く分かる。

週末、お時間のある方は是非どうぞ。

<以下、ネタバレに近い記述もありますので、未見の方、ご注意ください>



開演前に演出多田氏がマイク持って舞台に立ち、マクベスのストーリーを全て説明。それはあたかもマクベスという芝居から、骨から肉をぺりぺりぺりっと剥いでいくように、物語を分離する手管のように思われた。そのナイフを操る多田淳之介の手つきや良し。

だから、いざ芝居が始まると、僕らがふつーに期待するマクベスから物語を剥ぎ取ったところに、前作Loveでも観られた「割りかし裸の」役者が立ち現れる訳で、その役者達をどう観るかは観客に任されてしまう。役者を物語に縛りたい観客は苦労するだろうし、物語から切り離して音楽椅子を楽しむ客もいるだろう。ところが、その中に、物語と身体性を仲介するかのようなヒントがまぶされて、観客は永遠にぴったりとははまらないボタンを何度も掛け違うかのように、あーでもないこーでもないと、物語と身体性の間を行き来できる仕掛けになっているのである。そこらへんの「妄想スイッチ・想像力スイッチ」の配置に、演出の企みが凝らされている。

30分経過。役者が台詞をしゃべりだすと、それがまた坪内訳のシェークスピヤ台詞で、あっと気がつけば役者陣は和装・文語調。この芝居の観客は、身体 - 物語 を行き来できるだけじゃなくて、いまどきの身体 - 明治の言葉 - シェークスピヤの物語 を行き来できる、まさに芝居の三層ミルフィーユ構造を味わうことが出来るわけだ。それをどう楽しむかがまた観客に委ねられているのが嬉しい。

いや、どんな観方をしても大丈夫なように、隙がなく作ってあるのだ、という方が当たっているだろう。そういう、どこを味わっても大丈夫な芝居空間が目の前に提示されているというのは、まさに至福の状態で、多田淳之介、「実験的」とか何とか言ってはいるが、実は驚くほどエンターテイニングなのである。

「ゲネ」なんだから2つ気になったことも挙げておくと、
①中盤、実は、「台詞なくてもいいよ」と思ってしまった。ミルフィーユ三層構造の中で、明治文語調の台詞がどのくらい効いているのか、ちょっと気になった。
実際、台詞なくても大丈夫なんだけれど、でも敢えてそこで台詞を使うこと。そこらへんもうちょっと考えたい。
②椅子取りゲームの椅子。これが限りなく「メタファー」に近づいた瞬間が自分的には苦しかったかも。確かに椅子のメタファーをわかりやすーく提示して、紋切り型スレスレまで持っていったほうが観客にとって救いになるケースもあるのかもしれないが、でも、そんなものなのかなあ?この2点、本公演でもちょっと注目してみてみたい。

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