12/05/2010 ソワレ
今回の青年団、評判もよければ動員もよいようだ。役者もますますこなれて良い感じ。なので、終演後知人の方と話した、「革命日記は何のパロディか」に絞って書きます。
(1)そもそも1970年代新左翼チックなことを、下手すると1980年代後半に生まれた役者が演じること。そのズレ。
「あのころのことを知らない若い作者・演出家・役者じゃ、このテーマの演劇は無理だね」
(2)もはや現代日本では成立しない「革命」について、2010年に語ること。そのズレ。
「何で今革命についての芝居を上演する必要があるの?時代の要請と乖離してるよね」
(3)リアルに革命やテロを考えている人が、今、まさに、2010年5月の東京に、いるかもしれない、ということ。その「現実の」革命家たちとのズレ。
「俺、ほんまもんの新左翼の奴に友達いるけどさー、こんなことしてないよ、実際。なんか、リアルじゃなくて、醒めちゃうんだよねー」
あ、もう一つ思い出した。少なくとも1980年代中盤には「革命」についてまじめに、でも、僕から見ると100%パロディとして、語っている連中がいた。本当にいました。実名挙げろといわれれば、挙げられますよ。挙げないけど。
だから、この芝居には、「リアルとフィクション」「1970年代と2010年代」「同時代を知っている人と知らない人」という3つの次元でのズレがあると同時に、「観客の経験と創り手の経験」という次元も加えて、4重のパロディとなっている。そのように僕には思われる。
それについて平田が自覚的に芝居を組み立てていて、役者が自覚的に演技している限り、この芝居は「フィクション」として有効に作用するだろう。「リアルにすぎる」という批判も「リアルでない」という批判も、どちらに対しても十分に対処しうる強度を備えているということになるだろう。多くの人がこの芝居を観て「滑稽だ」と感じるだろうけれど、その滑稽さは必ずしも一様ではないだろう。「リアルだ」とも「リアルでない」とも感じるだろう。少なくとも2の4乗、16通りのズレ、パロディ。でも実際はもっと沢山。その辺りがこの「革命日記」の豊穣さ。
2 件のコメント:
初めまして。投稿をいつも楽しく拝見しています。
「革命日記」ですが、なるほど、自覚的に「パロディ」を舞台にのっけている、というふうに解釈すれば、芝居を観たときに自分が感じた違和感を納得することができました。観客の想像力や解釈の幅に作品を委ねることができるのは、確かに、作品に懐の深さがあるからと考えることができますね。
それでも個人的には、「革命」という概念・コトバと舞台上の若い俳優が結び付かず、物語に入り込めなかったのが残念でした。
(johnny)
johnnyさん
コメントありがとうございます。
物語に入り込めない体験(外側にいる感覚)もまた、芝居を観る醍醐味の一つだと思います。
小生も2年前の若手公演を見て以来、何かしら腑に落ちないものを感じていましたし、その割りに評判がよいのは何故なんだろう、とも考えています。今回も色々書いてますが、すっきり落ちてるわけではないんです。
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