2007年3月19日月曜日

五反田団 いやむしろ忘れて草

18/03/2007マチネ

前田氏の芝居は、彫刻刀で刺した傷のようだ。傷口はそんなに大きく見えないのだけれど、何日も何日も疼く。
去年の「さようなら僕の小さな名声」もそうだった。
今回もそうです。

大変素晴らしいので、いくら褒めても褒めたりないが、そして、ここに書ききれない部分でも素晴らしいところたくさんあるのだが、とりあえず今書けたいところだけ書く。

・アゴラがこんなに美しく見えたのは初めてか、あるいは凄く久し振りだ。照明良し。装置の選択良し。舞台奥の鉄パイプや裏の搬入口や、上手袖のはしごやエレベーターホール。客席とのバランス。素晴らしい。
上手の水道の蛇口をひねる芝居も久し振りだ。懐かしいし、効果も素晴らしい。

・役者素晴らしい。みんな素晴らしい。

・「ありふれた不幸の、ありふれた幸福の物語」とチラシにあって、そう言われてみればこれは物語なのかもしれないが、僕がそこで感じるのは物語のツボみたいなもので、それは例えば、
①「かっこいい父さん」
通勤途上、オフィスのある駅を降りると、毎日、凄くかっこいいキリッとした顔の父さんが、黄色い帽子をかぶった、顔だけは凄くお父さん似の幼稚園児の息子と、駅に向かって歩いてくる。
ある朝、僕が電車を降りると、なんと、かっこいい父さんだけがキリッと駅に向かってくる。ただならぬ気配を感じた僕は、しかし、さりげなく歩き続ける。
と、そこへ、息子が、必死に、でも、幼稚園児なのでオバサンの小走りくらいのスピードしか出ていない、でも、かなり必死に顎を上げて走ってきた。
その、後ろに伸ばした両手に感じるかっこいい父さんの酷薄さと親子の絆。
②「走る双子」
通勤途上の乗換駅で、階段を下りていくと、入れ替わりに駅に着いた電車から、わらわらと人が出てきて、階段を駆け上がってくる。
毎朝同じ車両から降りてポーズで走ってくる双子の小学生姉妹。なぜかいっつも2メートルくらい距離が開いてるんだよね。並んでなくて。遅れてくるほう、何だか、転びそうだ。
③「自転車娘とその母」
やはり通勤途上、駅に向かって自転車をこいでくる女子中学生と、その隣をちょっと早足で歩く母親。
ある日、その母親が、父親に変わっていた。
どうした、母親。

と、この3つ、全部実話なのだが、とても回りくどくて恐縮ながら、こういうところに物語を作ってしまう、幼稚園児が必死で走るとなぜか後ろに向かって伸びてしまう両手がたまらなく愛おしくなってしまうような感情を、
この「いやむしろ忘れて草」は起こさせる、ということで、
前田氏は、あんなに客を突き放しているように見せかけながら、実は、そういうところに思わずいとおしさを感じてしまう観客の気持ちを、とても細かいところまで気遣っている、(あるいはひょっとすると本能で嗅ぎ分けている)、という気がするのです。
<すいません、読み返してみると、これはさすがにボクだけのイシューですね>

・この芝居、何度でも観たい。100回観ても飽きないだろう(さすがに飽きるかな。)じゃあ、10回。10回なら絶対に飽きない。

・こういう、アゴラにぴったりな芝居が、14回しか上演されないとは。1回100人でも、1400人しか観れないということで、とても勿体無い。 でも、200人入るような小屋では観たくない。すると、アゴラで2ヶ月やれば、6000人。それくらいなら大丈夫だろ。この芝居なら。
オレ、10回観るし。
そういうことって、成立するのだろうか?本当に、広くみんなに愛でてもらいたい芝居なんだけどな。

0 件のコメント: