11/03/2009 ソワレ
なんだかなー。
「センセーショナル」とマスコミが書きやすそうな素材が沢山並んでいて、従って、
「センセーショナルで斬新な舞台が賛否両論を巻き起こした」
って書き易い出来なんだよなー。で、それだけなんだよなー。
舞台上で剣を振ると、「ビューーン」って効果音を入れるのって、どうよ?
当パンの英語部分 "About "Hey Girl!"" にも書いてあるけど(何でこれ日本語に直さなかったんだろう?)、「カステルッチは史実等々に題材をとりながら、それをそのままつかうのではなくて、シンボル・ジェスチャーのみを抜き出して使っています」。
まさにそれがこの舞台のスカしていて気に喰わないところで、要は、それらのシンボルやジェスチャーからカステルッチ自身の文化的バックグラウンドを理解できて、
「ボクちんこれが主張したいナリー」
ってのを読み取ることの出来る観客だけに向けられた、マスターベーション的な臭いのプンプンする舞台になっている。ということなのだ。文化人毛唐による文化人毛唐のための文化人毛唐の芝居。
「普遍」を目指すのであれば、とことん「個」に徹しなければ、異なる文化的背景を持つ人々には伝わらない。この作品は、まさにその真逆を行く。カステルッチが、自らの教養・歴史的背景に即して物事を「抽象」し、それらのイメージは「抽象」であるからこそ「普遍」たりうると勘違いしてしまったためにできた代物だと感じた。
ただし、
・ 女性が生まれてきたラテックスとペンキのお化けみたいなものが、芝居中90分間ずっとたらたら垂れ続けていたのは面白かった。反対側でやってる演技よりも全然面白かった。
・ 男が何十人もニュアンス無しにただただ登場して座布団で女性をばしばし叩くのも面白かった。そこで使われた「ばし、ばし」の効果音は、たけちゃんマンの効果音みたいで、とっても面白かった。
1 件のコメント:
“「普遍」を目指すのであれば、とことん「個」に徹しなければ、異なる文化的背景を持つ人々には伝わらない。”
まさに、その通りだと思います。異なる文化的背景を持つ人々の間で暮らし、活動する身として。
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