07/03/2009 マチネ
高山作品初見。千穐楽。
少なくとも会場内に3人はイビキをかいて寝ているのが聞こえて、今回ばかりはそれに対して怒りを覚えない。まぁ、こういうプレゼンテーションの仕方ではしょうがないだろう。
僕はと言えば(ちょっと自慢げに)、最初舞台奥の階段を降りてくるところでは、抑揚を殺したテクストが耳に入ってこず、コンテクストが失われてウトウトしかけたのだけれど、持ちこたえたところで映像による「今回の演出の種明かし」が出てきて、やはり一定のコンテクストのフレームにはまると、こういうテクストでも寝ないですむ。
が、寝なかったからと言って取り立てて引き込まれたわけでもなく、後半はサンシャイン劇場の怪談を思い出しながら観てた訳です。
「翻訳不可能性の中にこそ、逆説的に、日本語でしか実現し得ないイェリネク作品の上演可能性が隠されている」とチラシにあるが、変な翻訳、わざと耳に入りにくくしたテクストの中には逆説を見出す余地も無いだろう。
こんなことを書くと、「自分の置かれた、生まれ育ったコンテクストに当てはまらない刺激を受け入れようとしない偏狭な態度のために、こうした、演劇を越境するような作品に対して眼が開かれていないのではないか」なーんて言われそうだけれど、
そういう批判に対しては、
「コンテクストを超えた普遍は、飽くまでも「個」を突き詰めたところからしか得られないのではないかと考える。イェリネクの原語版を上演できないから、翻訳不可能性と言う言葉を使って日本語版の翻案を上演すること自体は良い。が、その翻訳不可能性の中で、外国人留学生の登場とか、サンシャインを碑に喩える陳腐な比喩、っていうのは、むしろ、観客をコンテクストに嵌めるための手段じゃないのか?僕は、コンテクストを提示されるよりもむしろ、パフォーマーの個としての身体をもっと一生懸命見ていられるような仕掛けを求めます。コンテクストを紡ぐのは観客に任せてくれ。」
と言いたい。要は、全体に、押し付けがましかったんだ、と、僕は言いたいのかもしれない。分かりにくくすれば押し付けがましさが薄まるわけではないのだ。
またまた、そんなこと言っちゃうと、イェリネクのプロフィールにあった「政治家やマスコミから非難を浴びる一方、様々な文学賞・戯曲賞ではきわめて高く評価される」ってあるのを持ち出して、「お前は政治家・マスコミ側の人間だ!だから分からないんだ!」って言われちゃいそうで、それも気分悪いな。
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