2008年3月2日日曜日

サイモン・マクバーニーの春琴

01/03/2008 マチネ

去年ロンドンであったA Disappearing Numberがすっごく良かったらしくて、マクバーニーの芝居は是非観たかったのだけれど、ただ、
「春琴抄と陰翳礼賛にインスパイアされて」というのが気になる。
一冊の本にインスパイアされて、それを舞台に乗せるとなると、大体において元の本を読んだほうがよっぽど面白いからだ。しかも、アイリッシュ・ア メリカンのマクバーニーが谷崎ワールドを舞台に乗せるって、何だか想像がつきそうな気がして、ま、怖いもの見たさ半分、ひょっとしてすごいかもが三分の 一、あとはもういいや、ってとこでした。

で、結論は、やっぱり、元の春琴抄を読んだ方が面白いだろう。
「春琴抄を皆さんに紹介したい」という意図で、例えば、これを、ロンドンでやるなら許す。きっと高い評価を受けると思う。
でも、日本でこれを高く評価しちゃいけんのじゃないか、と思ったわけです。谷崎変態先生の変態妄想力を踏み台にしてさらに妄想を羽ばたかせること には、マクバーニー氏は興味がなかったようだ。むしろ、彼得意の「テクストを語る・読むメタ構造」と、「現実から妄想へと続く奥行きに、時間と歴史の感覚 というディメンション」を付け加えて彼なりの「分析と解釈」を示した点で、このステージには一定の評価を与えても良い、という程度。もちろん、分析と解釈 を加えると、それなかりせば成立したはずの妄想のPathを幾つか潰してしまうことになるのだ。

「複数役者横ゴロゴロ攻撃」「複数役者同時演技攻撃」「紙パタパタ羽ばたき攻撃」等々、コンプリシテではお馴染みの意匠が、それも日本人役者で見られたのはちょっと嬉しかったが、逆に、
「ドドーン」とか、盛り上がりで「和太鼓ポーン」とかいう、陳腐な東洋趣味は如何なものか。

ラジオでの朗読とか、語り手=主人公になりたい谷崎、という外枠も、ほんちゃんコンプリシテ、Mnemonicで見せた切れ味には遠く及ばない。

ただ、ロンドンでは大受けだろう。受けるに違いない。きっと持っていくだろう。僕もイギリス人の友人に奨めるだろう(だから、恐らく、春琴抄を読んだことの無い娘にも奨めるだろう)。自分では見ないけど。

そうそう、ロンドンに持ってく時には、劇中で使ってるRadioheadのTreefingersは差し替えた方がいい。日本じゃわかんなくても、ロンドンの客はこれ聞いたとたんに折角の日本情緒ぶち壊し気分になるだろうから。

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