2008年3月9日日曜日

あなざーわーくす 2010年のエレクトラ

08/03/2008 ソワレ

かみさんのたまわく、「わたなべなおこには才能がある」。
オレ、勝手にのたまわく、「岩井秀人には才能がある」。
よし、観に行こう。でも、オレ、単身赴任中。よって一人で行く。

あぁ、楽しかった。楽しいったら楽しかった。

本を読むということが、「読書」という場を作者と読者が共謀してつくりだすのと同様に、
芝居を観ることが、「劇場」という場を演じ手と観客が共謀して作り出すのと同様に、
つまり、観客も、「受身の観客」ではなくて、観客としての役柄を積極的に果たすことで、
劇空間が成立するのであれば、だ、
「観客参加型」って、実は大いにありなのだ、ということを、

頭で分かっていても、「演じる側としての自意識がっ!!」 あるいは 「シャイな観客としての自意識がっ!!」邪魔をしているのだ。いつも。

あなざーわーくすは、その自意識があることを出発点として、そこから、極めてメソディカルに、観客のコミットメントを引き出していく。その手管が、なんとも押し付けがましくなく、どんどん引き込まれる。

そのコミットの仕方は、「自分が演じる側に立っている」というのとはちょっと違って、実は、
「演じている人々をよりよく観る、じっと観る、触れてみる、感じる」というコミットメントなのではないか、と感じる。その意味で、僕はやっぱり観 客であって、「演じる側」に対してはどこかで閉じていたのだと思う。でも、演技する人たちへの距離が明らかに近く感じられたのも確かで、それが非常に嬉し かった。

そんな中で展開されるギリシャ悲劇の物語は、当パンにある「2008年にとっての2010年」のような距離感で、すなわち、「現代から見た古代ギ リシャ」の遠いところで起きるのではなく、まさに、「演じる側と」「観る側の間の」、観客参加によってぐじゃぐじゃに入り組んだ薄皮一枚で隔てられたび みょーな距離で進んでいく。

それを、ぐっと近いところで見つめる僕らは、自他の距離の近さを、でも、「近い」ということは離れているということだ、という当たり前のことを、なんとまあ、自覚せざるを得ないのである。

かみさんのたまわく、「わたなべなおこには才能がある」。髄から納得しました。

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