2008年3月2日日曜日

弘前劇場 檸檬/蜜柑

01/03/2008 ソワレ

舞台中央のビリヤード台には、やはり、存在感がある。Crucibleに置かれたスヌーカーの台がそれだけで数々の物語とかたれてしまうのと同じ で、あるいはまた、アゴラの舞台上に置かれた全自動卓がその存在感を誇示した例もあった様に、ビリヤード台、スズナリの舞台に置くと、でかい。そして、芝 居を呑み込んでしまいかねないという危惧さえも抱かせる。

案の定、玉を突きながら台詞をつなげていく役者の技量には感心するのだけれども、やはり玉の行く手に目を奪われてしまって、本来なら目が行くべき役者の動き、ニュアンス、そういうところが、「観客として」おろそかになってしまうのを自覚した。
それは、「同時多発会話」で聞き逃した会話についてどう考えるか、というのとちょっと違って、「舞台上で偶然に起きること」に対して、どう対処し たらよいのだろうか、との思いである。舞台上の台で偶然すばらしいポットを決めた時に、それは演技にどう反映させれば良いのだろうか?という問題である。

と、まあ、そっちの方が気になって、筋書きとかそっちの方は二の次になりがちだったのは申し訳なかったのですが。

芝居の構造として、いろいろなことが舞台の外で起きていることについては、特に異存はない。セミ・パブリックな場としての玉突屋、そこに集まる人々、それも常道。
でも、観客としては、そこで動く役者が観たいんだよな。で、役者の動きや台詞がきっかけとなって、いろいろなことに思いをめぐらせるんだと思う。だから、
「舞台で起こっていること」の中心にビリヤード台があるということは、
①舞台の周縁部で起きていることに目が向かなくなってしまう
②舞台中央(すなわちビリヤード台で起きていること)を、観客の想像力のきっかけとして取り扱わざるを得ないところに追い込まれてしまう
という2つのリスクを負うことになって、実際、芝居自体が玉突きから更に先へとはばたかなかった。

あたかも、劇的なものがキューとボールとがぶつかってはじける音や、ボールとラシャとの間の摩擦熱や、そんなものに拡散された挙句に、カコン、という音を立てて台の下へと吸い込まれていくような。そんな感じがした。

力のある弘劇の役者をもってしてこれである。良い子は真似しちゃいけない芸当だ。気をつけよう、全自動卓とビリヤード台。

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