2008年3月3日月曜日

新国立劇場 空中庭園 動員挿話

02/03/2008 マチネ

岸田戯曲の面白さについては、昨年のケラさんの芝居、乾電池の月末劇場等々拝見して、はっとさせられていたのですが、どうも、この新国立劇場のプロダクションは、その嚆矢となったようなことがどこかに書いてあった。どれ、観てみるか。

僕の中で、「新劇的なもの」 と 「現代口語演劇と呼ばれているもの的なもの」 を整理したり、線引きしたりする時の基準は、次のような感じ。

「新劇的なもの」
・ 戯曲には必ず主題・メッセージが込められているから、それが明確に分かりやすく伝わるように舞台を作らねばならない。
・ あるいは、古い戯曲に対しても、何かしら新解釈・新しいメッセージが付け加えられるのであれば、それを見出して舞台に載せるのが演出家の仕事である。
・ つまり、演出家+役者の仕事は、戯曲のメッセージを、あるいは、自分が解釈したメッセージを、分かりやすく、コンテクストに載せて観客に伝えることである。
・ 従って、その目的に沿った演技の肉付け、時間の流し方が求められる。ノイズは排除する。一見ノイズに見えるようなギャグ・小芝居も、新劇的なものの中では「合目的的に」使用される。
・ よって、芝居がはねた後の観客の感想は、「ほんっと、役者さんがじょうずよねぇー」=「役者さんが上手にお話を説明してくれたので、楽ーにみれたわ」となりがち。

「現代口語演劇と呼ばれているもの的なもの」
・ 主題はもちろんある。でも、それが、作者の思うように伝えられる必要は一切ない。
・ 演出家の仕事は解釈やメッセージを巧く舞台に載せることではない。「観客が観ている事のできる」舞台を創って提示することである。
・ 解釈・コンテクストの辻褄併せは、観客に委ねられる。
・ 従って、一見「合目的的でない」ものが舞台に載せられる。
・ よって、芝居がはねた後の観客の感想は、「あらあら、でもこれ、何が言いたかったのかしらねぇえ?」=「説明してくれなきゃわかんないわよ」  とか、「なんかわからんかったけど、面白かった」=「オイラ、物語のことは良くわかんないけど、○○のシーンの△△役のあの動きは面白かったよなぁ」と なりがち。

で、今日は、その、新劇的なものを1時間50分、全身に浴び続けたわけである。
役者は、新劇だろうがアングラだろうが現代口語演劇であろうが、常に何らかの意図と段取りを持って舞台に立っているはずなのだけれど、この舞台の 役者の動きは、間のとり方から表情の作り方、広い空中庭園に何故か4人しかいない、その4人が何故か離れて立っている、そこで動き回る、その動きのとり方 まで、「新劇的なもの」で説明がつきそうだ。
動員挿話が始まって、何だか変な動きの役者が出てきたな、と思ったら、案の定青年団の太田宏だった。うーむ。45分新劇を観た後では、現代口語演劇の人の動きは、「変な動き」に見えてしまうのか...

動員挿話も良い戯曲だと思う。ちょっとしつこいけれど。乾電池の月末劇場かなんかで、高速の台詞回しで45分くらいに縮めたものを観てみたい、と思ったことである。

0 件のコメント: