2008年3月30日日曜日

桃園会 追奏曲、砲撃

29/03/2008 ソワレ

迷っていたのだけれど、マイミクcaminさんのポジティブ評を読んで観に行った。
観に行って正解でした。

新国立劇場の「動員挿話」は面白くなかったし(空中庭園はもっと面白くなかったけれど)、芝居を観る前の「プレレクチャー」という発想も良く分からないし、どんなもんかと思っていたのだけれど、最後まで飽きずに、すっきりと観られた。

当パンを真面目に読んでいればもう少し体力を使わずに観ることができたのだろうけれど、一人称の主人公=語り手=視点の転換の軸、となる男を挟ん で、舞台も大阪と沖縄の間を行き来する。それを丹念に見ながら追ってくると、最後、それが、電話線を通じてきっちり帳尻が合う、という構成である。

言葉の綾や単語が想起するビジュアルなイメージを軸にして、2つの時空をつなげてみる作業、あるいは、ある特定の一瞬を基点として時空をぐいっと こじあけ、芝居の世界へと作りこんでいく作業、そうして、舞台の上という特殊な空間をなんとか普遍へと持ち上げて行こうという試み、こうしたものは、考え てみれば、唐さんや野田さんがかなりの力技で創り上げた手管を、かなり真っ正直に継承していて、かつ、誤解を恐れずに言えば、現代口語演劇の出現等を横目 で見ながら、「洗練」(といってよいものか、若干ためらいつつも)が加わったものにはなっている。

なんだけど。僕はその構成自体が普遍につながるか(というか、伝わるかどうか)という点で成功していたかといえば、実は、そうは考えていない。舞 台の上に2つの場所を生起させることで、観客の意識を離れた場所へといざなおう、という企みは、結局のところ、観客を、沖縄までしか連れて行かない嫌いが あるのだ。
(あぁ、そういえば、どこか世界の果てのようでそこに至らないギリギリの場所、を指すようなせりふが、確かこの芝居の中で使われていた...思い出せない...)

とことん個に拘ることでそれを普遍へと転換し、目の前に世界をぶわあああっと広げていくことは、実は、可能なのだ。去年見た鄭義信さんの「カラフ ト伯父さん」で、地震に遭った神戸からコソボやイラクやアフガニスタンへと何百万人ものカラフト伯父さんの世界にこの劇場が繋がっている、と感じた時の圧 倒的な僕の心の動きを思い出すにつけ、この「追奏曲、砲撃」の意図が明確なだけに、なおさら、何が足りないのかについて沢山考えざるを得なかったのだ。

単に、作者の腕力の問題、戯曲の筋力の問題、として片付けてはいけない気もする。

とはいえ、この作品を90分観ることができたのは、その全体の企みと成否にかかわらず、パーツパーツに嫌味がなく、すっきりと描かれていたからだ ろう。説明台詞はむしろ過少で、「あらあら、あれは一体なんだったのかしら、ちっとも説明がなかったわよね」というお客さん連発なのは間違いないが、芝居 の企み自体が明らかな中では、くどい状況説明は悲惨な結果をもたらしていたに違いない。その辺を外さずに90分の舞台を織り上げる力量は確かとみる。色ん なことを考えながら、楽しんだ。

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