16/03/2008 ソワレ
30分早く家を出て会社の近所の朝のファミレスで文字を使わない日記を書く人。
そこから半径2メートルで起きることを複数のカメラ・語り手を使って語り、同じ話を複数の語り手によって語らせ、時間は行きつ戻りつし、役者も行きつ戻りつし、最後まで役者も観客もその30分から外に出ないまま終わる。
色や手触りが微妙に異なる薄い和紙を微妙にずらしながら積み重ねていくようなプロセスは、昨年桜美林で見たGhost Youthと同じ。
ただし、昨年の桜美林では、その繰り返しの中から、分けの分からない小人のようなもの(青い鳥に出てくるこれから生まれ出る赤ん坊の群れのようなもの)がわらわらと浮き出してきて、主婦が家庭で過ごす午後の一瞬恐るべし、次世代の者たち恐るべし、と思わせたのだが、
今回は、そのわらわら感はなくて、その代りに、和紙が積み重なる中で、パフォーマンスの大団円に向けて、何か、1点に向けて突き詰めていく印象を 受けた。全体のあり方が、どうも拡散しなかったし、「台詞を話していない役者」に対する意識の分散も、僕としてはどうも上手くいかなかった。それで、最後 の台詞がちょっと種明かし(あるいはオチ)ぽくて、恥ずかしい感じもしたのである。
別の言い方をすると、チェルフィッチュらしい、デフォルメされた動きとデフォルメされた語りから観客が読み出して、何かしらの像を結ぼうとする、その像の輪郭を、かなりぶっとく決めてきた(悪い言い方をすると、観客を誘導しに来た)、という印象が、してしまったのだ。
もちろん、誘導された方が分かり易いのだけれど、もっと好き勝手なことを妄想させてくれても良いのに、と思ったこともこれまた事実なので、そう書きます。
面白くなかったとまでは言わないけれど、でも、Ghost Youthの方が、より、楽しめました。
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