2009年2月28日土曜日

龍昇企画 風景の没落

25/02/2009 ソワレ

初日。
一言で括れば、インテリ老人キャッツ。
太宰治の「斜陽」をベースに、一つの土地の記憶が、憑依される人々の口から語られる。あるいは、老人達が解説を加える。その、一人ひとりが順繰りに物語を語って見せる(観客を演じる役者と、観客席に居る観客へ同時に)様が、どうにもキャッツ。五反田のキャッツシアターで語られる「はずかしい」台詞に堪えられないお年寄は、是非この老人キャッツの「はずかしさ」への呪詛を聞くが良い。が、客席にいた僕にとっては、正直、その呪詛の言葉こそがはずかしかった。

登場する老人達、折口・柳田・石田と名前が並べば、MBAをとってなくともインテリならば趣旨を了解するだろう。インテリじゃない僕は「石田」の名前にはピンとこなかったが、googleで検索すればすぐ分かる。

こういう、作者の思いをストレートに台詞に書いてしまうのは、若い劇作家がよく犯す過ちだと思っていたら、そうでもないらしい。言ってることにはうなづけないこともない部分もあるけれど、でも、それって、芝居として面白いかどうかとはまったく別の話。

当パンに書かれている演出家の言葉「稽古場で、台詞を立てられない、アイコンタクトが出来ない、指し示すことが出来ない、相手の台詞を捉えることができない演技者を見るにつけ、つくづく演劇は原初的な情報の伝達作法の中にあることを感じさせられる」も、あぁ、なんだかとっても怒ってるねー、とは思うけれど、それと、舞台上の芝居が立ち上がるかどうかは別の話で、あれ、ひょっとして、
「今回の芝居がつまんないのは俺のせいじゃない、役者のせいだ」
って言ってるわけ?なんていううがった読み方さえ出来てしまう。

インテリの使う言葉としての文語の役割についても、ちょっとなー。「文語の情報を口語に置き換える作業をしなくなった」ってのは、それはそうだけど、だからこそ、「語られる口語の情報を自分の口語に置き換える作業をしよう」ってのが現代口語演劇の問題意識の一つのはずなんだけど。

ま、そんな芝居をニコニコとしてごらんになっている年配の観客方がいたのは、不思議というか、救いというか。こういう文法の芝居もある、ということか。

小松杏里さんを舞台で拝見するのは「まいらない男たち」以来なのでとっても楽しみにしていたのだけれど、今回は残念。(幸か不幸か)ワンマンステージを与えられなかった堀夏子が「口語演劇」で健闘。

龍昇企画、次回、「モグラ町」の続編をやるというのがとっても嬉しくて、それは収穫。

0 件のコメント: