2009年2月15日日曜日

旧劇団スカイフィッシュ 適切な距離

13/02/2009 ソワレ

観ている間「時制と人称の不一致」ということをずっと考えていた。
母親との関係が緊張している息子が上演する芝居。演じる役者。それを紹介する友人・本人。
そういう入れ子構造をもって、テクストが役者によって読まれていく。

「時制」というのは、例えば、
(a) 演じている人の言葉=役の言葉。<演技> ⇒ 時制は一致、一人称
(b) 演じている人の言葉=劇中でさらに演じられている人の言葉。<劇中劇> ⇒ 時制はずれる。
(c) 演じている人の言葉=役の言葉。語られる内容は他者。<紹介> ⇒ 時制はずれる。三人称。
いずれのケースでも、観客は、演じている人しか見えていないし、演じている人の身体にしかリアリティを感じられるきっかけを持たない。

スカイフィッシュで気になったのは、(b)(c)の形態をとりながら、役者の感情が盛り上がっちゃうケース。それって、盛り上がってるのは、声を張っているのは、だれ?物語を追う視線では、もちろん、語られている人だったり、演じられている人な訳で、すると、「語る人」には、別の感情の流れがあるはず。それはどこに行ってしまったのか?そういう時制と人称のズレが行き過ぎると、「クサい」芝居になる。語りの身体性のリアリティ無しに、感情の流れに移入してくれと強制されてしまうので。

ただ、今回の「適切な距離」がクサかったかといえば、方法論が表に出た分、それはなかった。一方で、構造の強度が充分でなかったために、物語に流されそうになった局面が多々あった、ということだろうと思う。

所詮芝居なので、時制と人称はどこかで矛盾をきたしているはず。その、矛盾に見える点を丁寧に作りこめば、構造の強度はもっと上がるはずなんだけどな。
と、それが、チェルフィッチュのすごいところなんだ、と気がついた。あの語り口と身振りに騙されちゃいけない。岡田戯曲のすごいところは、語りから入って演技と行き来する、時制と人称のつなぎ目を、恰もそんなものがないかのように塞いで繋ぐ手管にあるんじゃないか。と、今更のように。

アフタートーク、杉原氏の「残念、拷問、疑問」。率直、かつ、僕からみたこの作品の良さを損なわないコメント。「疑問」にあった、作者と演出との緊張関係が止揚されて新たな高みに行っていない、という指摘は、多分当たっていて、色んな趣向に当たってみる前に、一つの趣向の強度を上げる(それは、ちまちまとスキマを目張りする苦痛に満ちた作業かもしれないが)形で、演出と役者がもっと追い込まれれば、大変なものに化ける可能性は、まだまだある。

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