11/04/2008 ソワレ
再見。やっぱりとっても面白い。
いくつかメモ書き程度に言えば、
・ 今回は、自分で分かったのだけれど、ほとんど「笑わなかった」。それは、現代口語ラップミュージカルに付随していた、「役者ごとの予見できなかった事件」がそれほど顕著に見えなかったから。
・ それは何故かというと、役者が上手になっていて、アクシデントを未然に防ぐ術を身に着けていたから。そして、役者ごとのタイム感の「ゆらぎ」の振幅が小さくなっていたから。
・ 「振幅が小さい」のはちっとも悪いことではない。振幅の小ささは、「地の会話」と「ラップ会話」の差異を(すなわちメリハリを)小さくする。だから、より、分かりにくくなる。この芝居の中で、分かりにくいことは良いことだ。
・ 「ゆらぎの振幅が小さく」「分かりにくく」なることによって、この芝居が「ラップに聞こえるか」「現代口語演劇に聞こえるか」は、ますます、 観客の態度によって決まるようになる。要は、「戯曲の意味を追いたがる」観客と、「ラップのリズムを追いたがる」観客とで、まったく別の捉え方になるは ず。で、その線引きが、揺らぎの振幅の小ささによってすっごく微妙なところに引かれているのが、何とも面白いのだ。そこでどっちに振れるかを追っていくの は、舞台を追うとともに自分の中のリズム・タイムを追うことでもある。そこに興奮する。でも、笑いはしない。
・ だから、今回も、最後まで「ラップ」に入っていけない観客は結構いたと思う。それはそれでよいのだ。すごく微妙なんだから。そして、「戯曲が面白い」と思う人は、きっと、そういう「楽しみ方」も出来たわけで、その意味で、戯曲の選択もあたり、という訳である。
・ 畑中友人とかけてセロニアス・モンクととく。そのこころは、「お前が弾くとタイムが狂っちまうからオレのソロの時にはピアノ弾くな」と言ったマイルスと、今回畑中氏のタイム感覚に泣かされる役者達。
・ 御前会議とかけてネフェルティティの後半ととく。そのこころは、「マイルスとウェイン・ショーター、書き譜で半拍音の頭をずらしてるのか、その場でやっちゃったのか、良く分からない。が、確かにワークしている」。
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