26/04/2008 ソワレ
いやあ、くだらなかったなぁ。
と、観終わって第一声。隣から「ひどい、ひどすぎる」の声が挙がる。
出ていた役者を前に何憚ることなくそんなことを言えてしまう、素晴しい芝居だった。
「口語で古典」というのは、「古典の解釈と表現」という罠にもっともはまりやすいモチーフで、とはいっても、最近だと、三条会のメディア・あな ざーわーくすのエレクトラはその枠を力強く、あるいは軽やかに超えて素晴しかったのだが、さて、岩井秀人、どうでる?というのが興味の1つ。
もう1つは、芝居のフォーカスが常に自らの体験・記憶にぐぐっとフォーカスしていく岩井一人称芝居の中でオイディプスがどのように振舞うんだろうか、という興味だった。
その興味を上回って楽しめる舞台だった。
ハタと手を打つ趣向は勿論楽しくて、特に、役者自身では見えないという字幕との掛け合いはとっても面白かったのだけれど、やはり、最もぐぐっと 持っていかれたのは、松井オイディプスの一人称の芝居に(物語上、当然のこととして)フォーカスが当たっていって、でも、周囲の役者は必ずしもフォーカス をオイディプスに当てていない、という妙なギャップと、そこに置かれた時の(岩井=擬似オイディプス=松井の)自意識の妙な拡散と自己完結の仕方である。
これは、さびしい。オイディプス、さびしい。
この、さびしい主人公の姿こそが岩井芝居の真骨頂で、このさびしさに移入した瞬間、オイディプスも引きこもりのプロレス兄さんも18歳見かけ60 歳の志賀君も、「個」として確立し、観客である僕の個に攻め込んでくる。そうしてそれこそが普遍に通じる(のではないかという妄想が僕の中に芽生える)。
そうして過ごした素晴しい1時間半を、その直後に「あぁ、くだらなかった」といってしまえるなんて、本当に幸せじゃあないか、と、そう思う。
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