21/04/2007 マチネ
こういう、方法論として考え抜かれていて、とても追いつけないようなところにいる人の芝居に触れると、ヘコむ。非常にヘコむ。
冒頭PoguesのYoung Ned on the Hill がかかって、
「あ、あ、これ、どのアルバムの何て曲だっけ」
と必死に思い出すうちに、芝居の方では夫婦の台詞が既に1分半くらい進んでいる。やられた。これ、何の話になっているんだ?
後は、ロストしたり、入りかけたり、で、終わる。内容は、また、本公演の頃に。
アフタートークも示唆に富んでいて、宮沢氏のブログ「富士日記2」にもあるように、金曜日のセッションはいろんな方いらして、かつ、芝居のからくりが明らかになるような質疑もあったらしく、ちょっと羨ましいな、とも思ったが、
① 探偵小説の最後のページから読んでもしょうがない
② 芝居の構造の謎解きは、芝居そのものを楽しむこととはちょっと違う
③ 宮沢氏の戯曲の進行の度合いという事情は僕には全く関係の無い動機で、「僕が」リーディングに来た動機は、その「構造の謎解き」について、予め自分の中に仕込みしておこう、ということなので、それはそれで寝かせとけば良い
④ よって、プレビュー・本公演を観る前にリーディングに来ておいて、良かった。
Poguesへの心の準備も出来るし。
しかし、本当に、思うのは、
「自分達が演ってて楽しいことを舞台に載せたらいいじゃん」
という姿勢がかっこいい、と。だから、方法に拘る、と。
宮沢さんの姿勢は、真似ができるものではないが、いや、してもしょうがないが、昨日から、僕は、大いにヘコむとともに、まるで、
日頃のオフィスワークで近いところしか見れない僕の眼球の筋肉を無理やり伸ばすべく、
モルジブの白い浜・青い空・遠い水平線に連れて行かれて、頭と瞼固定、いくら涙が出ても、こめかみ痛くなっても、じーっと焦点の合わない遠くを凝視し続けている、
という感覚が続いている。
要は、こういうものに触れると、芝居に対するパースペクティブが、ちょっとでも、変わる、ということなのです。
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