2007年4月23日月曜日

青年団 東京ノート (長文)

22/04/2007 マチネ

魔法の時間を過ごした、
というのは、公演後もときちさんの顔を見たから言わなきゃと思って言ってるんではなくて、素直な気持ちを短く言うとこうなる。

客入れ中、川隅の出から始まり、最後、暗転するまで、目が離せない。本当に、誰を見ても、どこを見ても、面白い。それが一体となって、場の時空を流していく美しさは、まるでマイルスの60年代後半のクィンテットのようだ。

(註:去年、坂手さんの戯曲集を読んだときの感想で、けしからんことに、以下のようなことを書き散らしているので、以下、引用。
独断と偏見で芝居を音楽に例えたら:
唐さん=オーネット・コールマン。そのこころは、思うが侭に垂れ流し。好き放題にやってかっこいい。この人はもう仕様が無い。才能だから。
平田オリザ=60年代後半のマイルス。こんなに絶妙のオーケストレーションでこんなにも美しいのに、なぜか商業的に爆発しない。
長塚圭史さん=ブランフォード・マルサリス。すくすくと、幅広く、屈託無く。ロックからジャズ、ファンクまでお任せ。器用貧乏でも終わらないよ。
山崎哲さん=エレファント・カシマシ。そのこころは、観客が身じろぎもせず舞台に見入っていたあの頃。
坂手洋二さん=ザ・フー。いいオヤジになっても相変わらずガンガンギターかき鳴らして、マイクスタンドをグルグル回してる。
ダッセー、と思ってしまうときもあるが、Live8ではティーンエイジャーの娘に「このバンドカッコイイ!」と言わせてしまい、オヤジ思わず目を剥く。 )

役者全員が場に対して極めて敏感に反応する。一瞬のスキも感じさせないオーケストレーションで、そこに生まれる演場(音場のアナロジーで)自体に感動する。

松田・山村のデュエットはまるでブランフォードとケニーカークランドのようで、絡みつつもたれず緊張感を失わないアンサンブルに、話始まったばかりなのに思わず涙し、
秋山・川隅が大竹・辻にピアニッシモで切り込んでいくときの間合いの計り方と大竹の赤い目じりにまた涙し、
堀さんって、なんでこんなに東京物語の杉村春子みたいに喋るんだろう、といっては感動し、
小河原が鈴木に何気なく吐く台詞「何にも見えないんだよ、真っ暗で」が、初演以来13年で初めて頭に飛び込んできて、ウッと感情がこみ上げる。
女子大生荻野に声を掛けられたのが自分でなくて小林であるとわかった時の足立さんのがっかりした表情に爆笑しかけて思いとどめ、
大塚先生熱弁中の足立・根本の視線の泳ぎ方に気をとられ、
能島が舞台上から客席をぐるりと睨め回す気合に気圧される。
特に全員の名前を挙げたくて書いているわけではないので、ここで止めるが、とにかく、頭のてっぺんから爪先まで、どこを見ても飽きないし、面白いのだ。

今回のキャスティングで観るのは初めてだったけれども、役者が変わっても芝居が崩れないのは、①コンポジションとしての戯曲の完成度の高さと、② 個々の役者の力、の2つが揃ってこそ。間のとり方やこまこました反応が変わっても、全体として芝居が生み出すうねりには変わりが無く、まさに古典足りう る。

なので、いちゃもんをつけるとすれば、オーケストラをけなすときに「第一バイオリンの2列目の人が演奏の途中でちいさくくしゃみをしていた」くらいのレベル感の文句しかつけられない(アンケートに書きましたが)。
あえて1つ繰り返すとすると、2014年に
「カメラっていっても、フィルムも何にも要らないんです」
という人は、きっと、いないと思う。だって、今だってフィルムカメラ使う人、いないんだから。

そして、豊穣感は、つねに、一種の饐えた匂いのそこはかとない不安感を伴う。
マイルスは音楽のスタイルを変えたが、名盤レコードは残った。青年団はスタイルを変えて、誰も見たことのない道を更に進むのか?芝居の世界に「録画芸術」はない。それでは、スタイルを変えずに、この高みから更にどこを目指して登るのか?

とにかく。この公演は素晴らしい。書ききれなかった素晴らしいことがたーくさんある。いくら書いても書ききれないので、とりあえず、皆さん、是非ごらんになってください。

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