2010年7月7日水曜日

青年団 東京ノート

04/07/2010 ソワレ

東京ノート、やはりとんでもない名作だ。なんといっても俳優のアンサンブルの完成度の高さは素晴らしく、せりふだけでない、抑揚、ニュアンス、ちょっとした仕草、「この芝居のスコアを読んでみたい!」と思わせる。そして、月並みな言い方だけれども、何度観ても新たな発見がある。本当にとんでもない芝居なのだ。

まず、新国立劇場中ホールロビー特設会場の空間がすごい。劇中「狭くてスペースが足りない」という台詞を残しながら、この威容はどうよ!中身は二の次、国威高揚にぴったりな立派なスペースに、ヨーロッパから逃げてきたフェルメールや他のコレクションがやってきて所狭しと展示され、そのホールには、80年経っても全く変わらない日本人がやってくる。奥泉先生、これがイロニー、なんでしょうか?違うでしょうか?と聞きたくなってしまう。

そして役者。今回は、キャストがかなり入れ替わったバージョンで、まぁ、青年団の役者だから誰をとっても素晴しいのだけれど、その中で実は、恥ずかしながら今更のように「あ!」と思ったのは長野海で、今まで何でこの素晴らしさが分からなかったのだろうと自分を呪うほど、視界への入り方、フェードアウトの仕方、ふと出てくる押し出し、どこをとっても文句なし。「名無しカップル」の女性役は、安部聡子・天明瑠璃子・能島瑞穂・高橋智子等々、誰をとっても毎回「この役を演じると美しさ5倍増し」な超お得な役どころで、本当に僕は「だまされましたね」の台詞が大好きで大好きで仕方がないのだが、今回の村田牧子の「だまされましたね」にも泣きそうになった。今回も美しさ5倍増しの例に違わなかった。こうやって挙げて行くと本当にきりがないのが青年団の役者の層の厚さなのだが、本当に切りがないのでここらで一旦切る。

で、もう一つの発見は、東京ノートは、「物語を語れない人たちの話である」ということ。こんなにもいろいろな人がいろいろなことを語っているのに、どの話も、一つとして物語として完結せず、断片としてしか存在しない。平田オリザの作劇法として、「外の世界の物語を想像させる」というのはあるけれど、殊この東京ノートについては「語り得ないまま終わってしまった物語を、観客が勝手に補わないとしようがない」あるいは「物語を語りきることのできない登場人物をじっと観るほかない」ということになる。語らないこと・語ることができないことの雄弁さと豊かさは、同日の昼に観たNODA MAPのザ・キャラクターで露わになった「雄弁に語ることの貧しさ」と極めて対照的だった。

そしてまた、東京ノートは、芝居についての芝居でもある。光を当てているところだけ見て、ほかは真っ暗、だなんて、あからさまに芝居のことを述べている台詞なのに、初演から16年、今日の今日まで、芝居についてこんなに語っていたなんて気がつかなかった。うかつなり。

本当に、本当に、何度観ても素晴しい。中学生が観ても、大学生が観ても、サラリーマンが観ても、年金生活者が観ても素晴しいはずだ。初めて観ても、十回観ても、何度観ても素晴しいはずだ。そして、芸能に堕ちない。特定の芝居を必見だとはあまり言いたくないけれど、真剣に、必見。

2 件のコメント:

johnny さんのコメント...

今晩は。いつにも増して熱い!ご感想ですね。東京ノートはこれまで2度ほど観ていて、今回はパスしようかなと思っていましたが、やっぱり観に行くことにしました! 今後とも楽しく読ませていただきたいと思います。

Homer Price さんのコメント...

johnnyさん
コメントありがとうございます。また、楽しく読んでいただき、ありがとうございます。
いやいや、これでも抑えたつもりだったんですが・・・今までご覧になっている方も、新キャストでの東京ノートは楽しみどころ満載だと思いますよ!