16/01/2009 ソワレ
始まってすぐに、「これは、真面目な『少女のニセモノ』なんじゃなかろうか」と思ったのである。
役者が発する言葉は、まるで誰にも向けられていないようで、「どこかで聞いたことのあるような」言葉が、他人に向けられないまま、そして噛み合わないままに場を満たす。
そういうのは、よく下手翻訳劇とかでも見かけるのだけれど、それを、なんでわざわざ現代口語演劇を乗り越えてきた役者を使ってやるのか。そこに意味はあるのか。というと、意味はとってもあって、それはどういうことかというと、
① 本来『その場に居る』ことは他者との関係性をとることでしか確認できないはず。あるいは、現代口語演劇の世界では、確認できないかのように役者がしつけられている。
② 松井周は、それを、役者に、やるなといっている、ように思われる。
(自分の周りに自分ワールドを創って、他人もそこに囲い込もうとしているように見せたい、と、アフタートークで松井氏も言っていた、と思う)
③ 一方で、役者は、下手翻訳劇でありがちな、「あなたの役作りはこうである。あなたの物語はこうして与えられている。その物語を精一杯歌いなさい」という材料も与えられていない。役者は自分の物語を語るのだけれど、その背後に濃密な生はなく、ただただ薄っぺらな表層の物語だけが与えられている。
④ 下手翻訳劇の役者なら、そこに自分で勝手に物語を埋め合わせて、くさーい演技を見せてくれる。
⑤ それができないサンプルの役者は、困る。確かに、困っていたと思う。
横軸としての「場への反応」と、縦軸としての「物語を背負うこと」の二つともに剥ぎ取られて、役者達は、自分が立つべき足場を極限まで削られてしまう。そこで台詞を発し、動くこと。その不自由さに、一観客として身もだえする思いであった。身もだえしながら、かなり興奮して見た。
で、上記の試みが、方法論のための方法論であるならば、まぁ、放って置いてもどうってことはないのだけれど、実は松井周はその役者が困った末に何とかかんとか綴りあわせる世界を、当初から、見ていたフシがあるのだ。そういう世界の織り上げ方。
残念ながら、小生の妄想力は、あの、「練れてない」とか「とっちらかった」とか言われても仕方のないような、本人も「時制が無茶苦茶な」と言ってしまうような、そういう世界をポンと目の前に出されてそれをグイッと自力で一つの世界に練り上げるレベルまでには達していなかった。
役者も、もっと不自由な場所で、もっと不自由な身体を晒しながら、どこかに更なる突破口を見つけてくれるんじゃないかと思わせた。つまり、もっとできるんじゃないかとも思ったのだ。
要再見。
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