28/09/2008 夜
鳥の劇場、鳥の演劇祭の最終日前夜は、鳥取・東京・富山からパネリストを迎えたシンポジウム。
「演劇の公共性」とは何かを軸に話が進んだけれども、パネリスト達、「自分たちが考える演劇の公共性の定義」については語れても、「観客にとって芝居の公共性とは何か」に言及する、あるいは、そこに想像力を働かせた発言が極々限られていたのが非常に残念だった。
一観客として言えば、芝居の公共性とは、
・ 鳥取に芝居を観に行くのに、1人で行かないこと。ま、別に1人で行ってもよいけど、観終わったらそれについて思いを語り合える人がそばにいること。
・ もっと踏み込んで、他人でも良い。観終わった後、その芝居について語り合える場があること。
・ それは、鹿野の町で言えば、鹿野の人たちが、「ゆうべの鳥の劇場の芝居は、あれはさあ・・・」と語り合えること。
・ 鹿野まで芝居を観に来た僕に、「ようこそ。芝居を楽しんでいってくださいね」と、町の人がいってくれること。
そういう体験のこと、あるいは、そういう体験から広がって得られる何かではないか。そこからしか始まらないんじゃないか。と考える。
鹿野の町を1人で歩いていたら、すれ違う人に「こんにちは」と声を掛けられて、それだけでもう、僕は、鹿野で「公共性」に触れた、と思ったわけで ある。声すら掛けられないAlienな存在ではなくて、「日頃町では見ないけれど、おそらく他所から芝居を観に来た人」というポジション・コンテクスト を、すれ違う一瞬で組み立てる。そういう、コミュニティのコミュニケーションのコンテクストに組み込まれることが公共性であるとすれば、鹿野には、芝居の 公共性であっても、どんどん広がる余地が、本当に豊かにあるのだと思う。
東京では、公共性どころか、人間が機械人でないことを疎明することにすら汲々としているのだから。
「料理昇降機」に出てくる二人は、それぞれ、アストン・ビラとトットナム・ホットスパーというフットボールクラブのファンなのだけれど、彼ら、別 に、フットボールが無茶苦茶上手いわけでもないだろうし、選手が知り合いな訳でもない。でもやっぱり試合結果に対してアツくなるのは、それは、フットボー ルが、イギリスで、「公共性」を有しているからです。公共性を持つスポーツだから、大資本が入ってくることへの警戒感・嫌悪感を持つし、よそ者選手が入っ てきてもその公共の場に受け入れられる素地があるし、どこのクラブをサポートしているかで、何となく出自とか性格とか、そういうところまで思いが語れる。 イギリスのフットボールには思想がなくとも公共性がついてきた。日本の演劇、どうだ?鳥取の演劇、どうだ?
だからこそ、シンポジウムで語られた内容にはがっかりしたし、逆に、このシンポジウムが開かれるに至った積み重ねや、鹿野の町の文明の開かれ方には、本当に感動したんです。
2 件のコメント:
鹿野の町、ステキでしたね。
お芝居もとってもよかった。
思い立って一人で出かけた私は
-鳥取に芝居を観に行くのに、1人で行かないこと。ま、別に1人で行ってもよいけど、観終わったらそれについて思いを語り合える人がそばにいること。
という一文に痛く心を衝かれました。
話す相手がいないと言うのは、何とももどかしい。
帰りの送迎の車のドライバーさんが幸運にも鳥の劇場の出演役者さんでちょっぴりお話できたのが嬉しかったです。
鹿野の町並みを歩いているとき、私も町の人に声を掛けられました。「芝居を観に来た人」という距離感をキチンと取ってくれていて何とも公共的な町だなあと思ったものです。
おけいさん
コメント有難うございます。
レスが遅れてすみませんでした。
これからも是非、鳥の劇場を「遠くから」ですが、応援したいと思っています。
Homer
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