10/02/2008 マチネ
エイブルアート・オンステージが開くコラボ・シアター・フェスティバル。昨年シアター・トラムで観た時も、ガチンコの芝居として凄いものができる可能性を感じていたが、今回は青年団山内健司も出演ということで、かなりの期待感を持って観に行った。
去年も同じことを考えたのだけれど、エイブルアートの芝居を観る時には、
「障がい者がこんなに頑張っているんだぁ」
というような、ぐぁんばりに対する陳腐な賞賛と半ば見下した拍手・涙は厳禁である。
あくまでもガチンコで観る。駄目だったら駄目と言う。良かったら何が良いのかを言えるように観る。
人間、弱いので、ともすると「障がい者でよくぞここまで」という安易な感想に走りがちなので、そこは心して。安易な涙はいかんぞ。と思って臨んだのだが。
終演後、山内氏から、「泣きすぎじゃない?」と言われるくらいに、目が赤くなっていたようだ。
まず、これは、とんでもない戯曲だ。シンプルで太い線で、がっ、がっと力強く時を刻む。その力強さは、物語で観客を引っ張ろうとする強引な力では なくて、力士の足が地面をがっと打つ、その力強さである。余計な台詞を散りばめず、真っ直ぐな台詞の彫刻刀で時空を削れば、たちまちそこに此の町とあの町 を繋ぐ線路と駅舎が生じて、役者の足許に大地が広がる。もちろん、太い線だからこそ繊細さを持ちあわせる。ここしかないという位置取り、組み合わせ。非常 に勉強になる。
作・演出が同一人物なので、ある程度当然なのかもしれないけれども、演出も、戯曲の意図と力強さを同時に伝えて過不足がない。演出は、役者に説明を一切求めていない。きちんと立つことを要求しているに違いない。明確である。
そして役者。何と見事に立っていることか。去年、東京乾電池の新年公演を見たときに、まるで、柄本さんが若い役者達に
「君達はね、余計なことをしなくても、充分面白いんだよ。だから、安心して舞台に立っていなさい」
と言ってるんじゃないかという気がしたけれど、今回の舞台でも、そういう、演出と役者の信頼関係が際立って、そこでもう、涙が出てしまう。
和田祥吾は前評判通り、舞台の全体に目配りを利かせた立ちで魅せてくれたけれど、でも、芝居はアンサンブルなので、決して和田氏だけではないの だった。三人組、麻里、みっちゃん、駅員兄弟、それぞれが、どんな我を張るでもなく、それでいてしっかりと舞台上の「この瞬間」に根を張っているのが、ど うにも凄い。これが、芝居の醍醐味なのだ。
永山智行おそるべし。こふく劇場おそるべし。みやざき◎まあるい劇場おそるべし。宮崎は東国原だけじゃなかった。そして、このプロダクションを東京につれてきたエイブルアートおそるべし。
自らのアンテナが低かったにも拘らずこの芝居を観る機会に恵まれた自分は非常に運が良かった。
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