2008年2月17日日曜日

パパ・タラフマラ 新シンデレラ

16/02/2008 ソワレ

まず、当パンがまったく気に喰わない。
「(神話化の試みの)ポジションは外せない」、「人間と動物を超えた世界から見たユートピア、あるいは残酷物語に、本作品が見えてくると思う」、「何かを感じられたらそれは深いところでの理解が伴いだしているはずである」云々。

「もちろん、どのように見ようが自由だ。分かっても分からなくてもいいと思う」
というのであれば、冒頭に挙げたことは当パンに書かないほうが良い。
この2つの組み合わせで読み取れるのは、
「自分が観客に理解してほしいのは、A、ということです。もちろん、B、と理解しても構わないけれど、それは、あなたの深いところでの理解が伴っていないということです」
という、かなり傲慢な姿勢だ。

その上で、「今、最も必要なのは批判する心よりも、真剣に入り込むこと、没入する本気度だろう」
オレは、いつも、真剣に観てるよ。いわれなくたって。それともなにかい?何の批判もなく、チミタチの考え方のスレッドにはまってくれ、とお願いされているのかい?
もしこの舞台に没入できないとすれば、予め「A、という風に理解してください」といってしまう、パフォーマーサイドの傲慢さ故ではないのか?

でも、僕はパパ・タラフマラを信じてますよ。グローブ座のマクベスでドーーーーンとやられたのを覚えていますよ。能書きも理解も要らないところで、あんな面白いマクベスをみせてくれたではないですか。

だから、幕前、頭に血が上っていたものの、一旦冷静になって観た。

が、やはり、仕草や笑顔、奇声、変な日本語、時折混ぜる英語、すべてが、
「僕達はこういうふうにシンデレラを解釈し、その結果を提示します。その道筋を追いかけてください」
というメッセージにしか受け取れない。僕が舞台に求めるのは「解釈と表現及び観客によるその理解」ではない。僕がほしいのは「想像力へのきっかけ」だ。きっかけを孕まないイメージの提示は、全体としての舞台の豊穣さをやせ細らせるものでしかない。

1時間半、マシュー・ボーンのプロダクションが何故面白いのかについてずっと考えていた。結論はでなかったけど。

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