2008年1月14日月曜日

KAKUTA 目を見て嘘をつけ

13/01/2007 マチネ

初見。劇場に入ると、何だか「妙に見慣れた感じの」舞台が組んであって、当パン見たら案の定舞台美術横田修とある。横田氏、本当に何をやっても人柄が出るというか、なんというか、それだけでこのKAKUTAという劇団への親近感が芝居観る前から増してしまう。

客入れ時から役者が舞台にいて、普通の声で色々やっている。「現代口語演劇風」である。

開演すると、小屋が大きいからなのか、セットが大きいからなのか、そういう設定なのか、みんなもともと声がでかいからなのか、出だしから、役者の声が妙にみんな大きいのが気にかかる。客入れ時とで超えのボリュームにギャップがあるのだろうか、とも気になる。

僕の脳内には、「現代口語型ウェルメイド演劇」というかなり曖昧ですっごく幅の広い芝居のカテゴリーがある。そういう芝居を観ていると、
・ 「あぁ~、こんなことをやると、現代口語演劇の連中にダサいといわれるだろうなー。自分でもちょっとと思うし」というポイントを自分なりに理解し、
・ が、一方で、「現代口語演劇」の「リアルじゃなさ」「気持ち悪さ」を自覚した上で「リアルに仕上げる」、というところは避けているかそこに届いていないか、のどちらか。
という気がしてくる(この説明のしかたじゃ僕自身も理解できないか...)。

これは、「良し悪し」のメルクマールではない。「現代口語型ウェルメイド演劇」の中でもピンきりで、例えばグリングやポツドールを観ても同じことを考えたので、要は、そういう大所を含むすっごく広いカテゴリーである。

ちょっと長くなったけれど、KAKUTAもその範疇に入っていて、それは、例えば、声の大きさ+みんなでそばをすする時に客に背を向けない吉本流+事件が起こった時の役者の一斉フリーズ
というところで感じることである。
本当は、フリーズするしない、客に背を向けてそばをすするすすらない、の、すっごく小さくて細かいところで観たいのに、ウェルメイドな物語の構造の中に細部が絡めとられて、つるっとしてしまう。それが残念だ。
スッごく細かいところに突っ込むと、逆に、場面の数を絞らないと2時間や3時間で収まらなくなるので、畢竟1幕になりがちで、気がつくとただの青 年団になっちまうじゃないか、という危惧も分からなくはないけれど、でも、底に物語があれば、で、それを舞台に載せる力があれば、大丈夫なはずなのに なぁ、と思う。見た目は「ただの青年団」であっても、その背後のプロセスによって劇団・作者・役者の個性は十二分に保証されるとも思う。
(この芝居を観ていて、そういうことが起きるキャパシティのある集団なのだろうと思った、ということでもあります)

そんなことを考えながら観てました。

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