19/01/2008 マチネ
芝居を観る時には、特に、初見でない劇団の芝居を観る時には、予め、何かしら身構える。観るときの自分のモードを予め決めてしまうのは、つまりは、らくーにして白紙の状態で観られないので、どっか損してるのかもしれないが、まぁ、しょうがない。
で、三条会を観る時には、1時間強、かなり強引めのノリで引っ張っていかれる覚悟を決めておくようにしている。Achilles Last Standが1時間続くとか、そういう感じである。丁度良い喩えがないのだけれど、ヘヴィ・メタルなんである。泣きのギターは入らないし、思わぬところで 変化球投げてくるので、ジャンルとしてのヘビメタとは違う。70年代のマイルスのほうが近い。
僕は「メディア」のもとの物語を知らないので、そこについては予見なし。
クレオンを刺すメディアの顔は、ブルースリーのように切なく照れ臭い笑みを浮かべる。
あぁ、このB級感漂う表情は、大それたことをしてしまうものと、その大それたことをアタシがやっちゃっていいの?というちょっと恥じらいのある醒めた視線が交錯した結果か?
舞台奥には、岩井秀人「ベルンガ星人をやっつけろ」で発見された「演劇の神様」がいる。こんなところにも神様はいるんだ、と思って、ちょっと嬉しい(後で当日パンフを読んだら、三条会では"TIMER"と呼ばれていた。神様と呼べばいいのに。ギリシャ悲劇なんだから)。
舞台の上では、メディアという、かなり大それたことをしちゃう人と、その自分を見ている感じと、それを演じる感じ、演じさせるフレームワーク、その4つがミルフィーユのように層を成している。
(以下、ネタバレだが、公演終わっているので、書いちゃいます)
と思っていたら、3分間の休憩。休憩中に聞こえるこのMCは、ひょっとして、「山口百恵」では?(これも事前に当パンで種明かしされていたのだけれど)
休憩が終わると、メディアによる虐殺のくだりが、山口百恵ヒットソングメドレーの圧倒的なグルーブにのって迫ってくるのだった。
そういえば、山口百恵も、その結婚・引退はかなり大それた話で、その大それたことも自分だから出来ちゃうのよ、みたいな自覚に乗っかって、ベタベ タなMCも自分だから許されるのよ、と大見得切っておいて、これでもかとヒット曲を歌ってみせているではないか。それに僕らは参っちゃうじゃないか。
わが身を省みず、省みてもその鏡に映る自分の姿を脳内変換してしまって、自分には大それたことをしても許されるスーパーオールマイティーパワーが与えられているのだ!!と勘違いしてしまう瞬間があるものだ。
それが山口百恵であれば伝説・名声となり、
メディアであれば悲劇となり、
大内内蔵助であれば忠臣蔵となる。
僕がやったらただの恥ずかしい勘違い男である。
主演の大川潤子さんも、スズナリの外であれをやったらただの変な人でしかない。
(中でやってもかなり変だったけれど)
そういう、ちょっと恥ずかしいエンターテイメントを、心の中でチラッと「あ、はずかし!」と思いながらそこに引っ掛からないようなスピード感で 引っ張っていってくれる三条会の舞台は心地よい。難しいことを考えるのはずーっと後のことで、劇場にいる間はひたすらエンターテイニングである。近代能楽 集も、三条会にかかると面白くなってしまうかもしれない、と
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