僕は概して「集団もの」「カルトもの」が嫌いだ。
というのも、
① そもそも、集団の気持ち悪さというのは、「特殊な環境におかれた」集団でなければ抽出できないのかに疑義がある。
面白い芝居は得てして「特殊でない」環境の中から極めて特殊なものをみせ、それを普遍につなげる力を持っている。
② 「劇団」という集団も割りと閉じた集団になりやすくて、そのアナロジー(つまり、作者・演出・役者の、自分が属する劇団への思い)を脱し得ない芝居が結構多い。そんなの観ても面白くもなんとも無い。
③ 観客の側から見ると、「あぁ、こういう気持ち悪さは、カルトだからじゃなくて、実は実生活のアナロジーたり得、普遍性を持ちうる」という方向 に持っていこうという人と、逆に「あぁ、あるある、こういうカルトな集団。宗教とか、劇団とか。やーねー。関わりにならないときましょう。」で済ましちゃ う人がいると思う。そして、後者の方が圧倒的に多いはずだ。それがまた気分悪い。
④ そして、こういう「集団もの」「カルトもの」って、大体、「気持ち悪い」んだよね。すかっとしない、というか。
なので、「キリスト教カルトもの」は、その時点で最早僕の範疇から外れているといって過言ではない。④はちょっと違うけど。
実際に観てみたら上記のファクターがゼロになってしまっていたなんてことは有り得なくて、やっぱり僕の範疇ではないのだけれど、でも、大方の場面 でドツボに嵌らずに進行していく。昔のアニメかなんかで、イヌとネコとウマが運転するポンコツ車が地雷やら立ち木やら穴ぼこやらをスレスレで避けながら乱 暴運転で野原を駆け抜けていくように、何だか、
「それをやっちゃあおしまいよ」
と言わせることなく、最後まで見せきってしまったのである。
そのポイントはどこにあるのか?
① 学校の体育館という「開いた」、割りに集中しにくい空間で、かつ、両面観客席の間に舞台を張った。この「開いた」感じが、カルト物芝居の居心地の悪さを減じたから。
② そもそもいなくても芝居が成立するはずの登場人物=「外部からの闖入者」が、まさに「いなくても芝居が成立する」ことに自覚的に、客席の視点を共有するから。これがないと、カルト物はすーぐに浅間山荘になってしまうので。
もちろん、作・演出が「集団の『純粋に内部の』ドロドロを描きたいんだとすると、外部からの闖入者の視点は芝居を甘くする副作用は持っているけれど。
という訳で、芝居を観終わった後に、作・演出の泊氏、ゲストの青山真司氏、ともに門司高校出身であることを知った。弟の母校である。あぁ、よかった。ボロクソの芝居だと困っていたところだった。
(次の日弟に電話して聞いてみたら、
「門司高校ってのは、勉強するヤツ、スポーツするヤツ、芝居とか映画、バンドにはまるヤツ、結構はっきり分かれて、しかも色々出るんだよね」
とのこと。ちなみに弟は肉体派一直線の青春だったので、泊さんも青山さんも児玉貴志さんも知らなかったそうだ)
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