2007年2月10日土曜日

ザ・ガジラ セルロイド

<この日記には重大なネタバレに近いものが含まれています>

大久保鷹を観に来た。20年近く前、友人が、「生きていたのか大久保鷹」のコピーに魅せられて唐組の「電子城」を観に行き、最前列で大久保放つ納豆をくらったという、その大久保鷹である。

始まって3分で、女優のクサさに席を立ちたくなる。
今さらの絶叫芝居はやめてくれ。
いや、クサいのは女優だけじゃないぞ。何だこの台詞は!
かなりメタなレベルで処理してるような戯曲で無いと許されない、いや、処理しててもやっぱり許しちゃいけないような台詞の連発だ!

大久保鷹、動く。口を開く。すごい。あぁ、この人は、「ここに、居る」。なんと、この、生身の凄み。

女優でマイナス6000円、大久保鷹でプラス3000円。チケット代はすったと思い切れば、チャラ。

途中で思い始める。あぁ、これは、次のどちらかだろう:
① ヴァージニア・ウルフなんか怖くない、パターン。すなわち、家族三人が外部からの闖入者をいたぶっているパターン。
② 夢落ち、パターン。すなわち、誰かの罪の意識がこのシーンをその誰かの脳内に生ぜしめているパターン。
そうだ、そうに違いない。そうでなければ許されない。

あぁ、きっと、これは、大久保鷹の芝居なのだ。彼の脳内の話なのだ。だから彼は聞くのだ。「お前の望みは何だ?」と。この世界は彼が作っているのだ。

でも、僕の読みは、違った。当らずといえども遠からずだったけど、きっと、僕がもっとも望まなかった結末に進んだ。しかも、構造の説明に時間とりすぎ。

「人はとかく分かりやすい人間を求めがち」「テレビドラマはその典型であり、そこに存在しているのは「人間」ではなく、「情報化された人間」ばかりである。演劇は、それだけは避けたいと願ってやまない」
と当パンに書くのなら、多少芝居の絵解きが難しくなってもいいから、そういう風に作ってほしいものである。

大変がっかり。
効果音・照明も、何だか、できの悪い戯曲を厚化粧でごまかしているようにしか感じられない。
同じコンセプトでも、役者そろえて、きちんと作りこめば、きっと1万倍は良くなったはずだ。

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