2010年1月18日月曜日

三条会 S高原から

17/01/2010 マチネ

観終わって、ズズゥーーンという、重苦しい、永遠に闇の底に落ちていく夢から醒めたような、そういう気分になった。本当に素晴しい、いつまでも忘れられない、そして、決して芝居の構造も、それを観ていた自分自身の情動も解き明かすことは出来ないだろうと思うような、そういう舞台だった。

平田オリザの「S高原から」は、まぁ、現代口語演劇の代表作の1つである。高原のサナトリウムにいる不治の病の患者達と、それに関わる人々の姿を描いて、人間の生と死について何となく考える、みたいなお話。が、三条会の舞台は教室にスチール机7つ。脚立が多数。
「あぁ、俳優演じるところの学生たちが演じるS高原からの劇中劇、という趣向ですか?」

・・・違う。「劇中劇」のキーワードを使って舞台上の出来事を回収しようとしても、途中で破綻してしまう。かと思うと、看護師が鎌を振り回して、
「あぁ、そうか。内部の人と外部の人、その関係性が断たれる時に、どっちが生きててどっちが死んでるというのには関係なく、飽くまでも相対的に、一方は死ぬのだ、ということですね?」

・・・違う。みんな何だか生き返って仲良くしてるし。机重ねて上から飛び降りてるし。へぇンな個とバでぇ、セりふ言テるぅし。机の上で寄り添うし。男と女が寄り添うし。男と男が寄り添うし。出初式も見れるし。脈絡なく踊るし。

・・・舞台上の事象を物語のパターンに回収して自らの既成概念を守ろうとする自分の態度が、とてつもなく恥ずかしくなってしまったのだ。

平田オリザの「現代口語演劇」が、「どんなお話なの?どんなご教訓なの?」という問いに答えることを拒絶して、ハイパーリアルな会話の積み重ねと一件意味のなさげな所作とを組合せて、観客が好き勝手なことを想像する余地を与えながらも、その向こう側にインプライされる一つの世界については「確かにある」と思わせるよう心を砕いていたとすると、三条会は、そもそもその向こう側にあったはずの世界すらぶち壊していく異形の舞台を創り出す。

舞台上の色んな妄想のタネが、戯曲のコンテクストに囚われることなく噴出して、そこから妄想世界を組み上げる(繰り広げる)作業は観客に任される。少なくとも僕は、「任された」「渡された」と感じた。そこには、作者・演出家の中で完結した妄想の世界を「提示する」というそぶりは全く感じられず、観客としては、渡された妄想のタネをどうやって組み上げたところで、予定されていたと思われる形には決して出来上がらないのだ。いや、そもそもそんな形ははなから無いのだろう。それは無常の喜びでもあり、不安でもある。

こうやって、観客は、積み重なる妄想の不安定な楼閣の上に立って、高所恐怖症のめまいを感じるのだ。

僕は最後は大丈夫。「S高原から」は初演以来繰り返し何度も色んなバージョンで観てきたので、「あぁ、戯曲の言葉自体はいじらないで進行するんだな」と思えた時点で、自分の妄想力に一定のタガを嵌めて、ある意味自分を安心させることもできたから。全体の何割まで来たか、これから話が(少なくともテクストの上で)どう展開するのかが見通せたから。

が、これが、「S高原」について全く知見の無い観客だったらどうだったか?それはきっと、「いつ終点に着くのかさっぱり分からない、闇の中を走るジェットコースター」に乗ってるような恐怖感を覚えたのではないだろうか。それはそれで、とっても羨ましい体験なのではないか、と思っちゃったりもするのだ。

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