23/01/2010 ソワレ
昨年、アルテリオで「行程2」を観た時には、三浦氏のアフタートークも何だか自信なさげで、戌井氏のコメントも何だか良く分からなくて、ひょっとしたら「難しすぎ!」を遠まわしに言っているだけかもしれないと思えたりして、今回の吉祥寺シアターに向けて一体どう仕上がるのか、正直不安だった。今日も、夕飯入れてから劇場にお邪魔したので「いざとなれば睡眠に落ちてもやむなし」と思っていたのである。
ところがどっこい、予想に反して(失礼!)1時間40分時計に目をやる暇もなく、もちろん一睡もせずに見通した。とても面白かった。
もちろん、「何だか難しいばかりで、一体何が言いたかったんだか」という人はいるだろう。
「これは演劇なのか?スジも役柄もありゃしない」という声も挙がるだろう。
「太田氏のテクストはどのようにして伝わるとお思いか?」という問いも出るだろう。
「あんなことをして、役者はつらいばかりではないですか?」という人もいるだろう。
その一つ一つに丁寧に答えることは出来ない相談ではなさそうだ。でも、僕自身が、
「何故この芝居を、『なんて面白い芝居なんだ!』と思うんだろう?」
という問いに、なかなか答えられないのだから困りものだ。
テクストが発語される。役者は動く。誤った役柄で。誤っていない役柄で。役者の動きはテクストによりかからず、表情もよりかからず、そこに、「気分」は生まれない。ときど~き発話がテクストに引っ張られる感じがする。ちょっとした気分が生まれる。でも、そうしたちょっとした気分はふわーっとどこかへ消えて、気分はなくなる。身体とテクストが残る。それらはお互いによりかからない。ときど~き弱い引力を感じる。
そういうオーケストレーションを味わっているうちに、100分経った。
あぁ、やっぱり、「何でそういう、息苦しい所作と切れ切れのテクストの固まりを100分間観て、面白いと思ってしまうのか?」という問いには答えられない。もしかすると、息苦しい所作の役者から、エクトプラズムのように吐き出される言葉が、実は太田省吾氏のテクストとなって、ポッ、ポッと劇場内に広がっていく、あるいはボトッと落ちる、そういうさまを、飽きもせずに観ていただけなのかもしれない。台詞を発することは、ウミガメの産卵に似ているのかもしれない。そのこころは、「よくもこんなに歩留まりの悪い、生産効率の悪いことを、飽きもせず1時間も2時間も眺めていられるもんだ」。
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