2010年1月27日水曜日

青年団 カガクするココロ+北限の猿二本立て 再見

24/01/2010 マチネ・ソワレ

どうも今回の青年団のプロダクションについては、「ゴツゴツしてないのが不満だ」とか「良くも悪くもすっきりしている」とか、そういう、手触り感に関する感想をよく聞く気がする。

そういう感想の良し悪しや当たり外れは置いておいて良い。何となれば、そういう「手触り感」は、役者の巧拙にも依るし(もちろん、技術的に下手な方が期せずしてゴツゴツ感を醸すことがあるという意味で)、観る側の好みによるところも大きいし、また、世代や時代を映した結果だともいえるから。

でも、放っておいて良いことを何で敢えてここで蒸し返すかといえば、それは、僕もまたこの公演について、
「どうやったらもう少し表面が毛羽立った、ザラついた芝居になるのだろう?」
と思ってしまったからです。「毛羽立ち」というのは、「巧まずして出てしまうものとは異なる、極めて巧妙に生み出される違和感」というくらいの感じである。

それを大きく感じたのは、「カガク」では、河村竜也が村田牧子の狂言自殺を責めるところ、「北限」では、佐山和泉が「あーっ」と声を出すところ。いずれも「すごく上手に組み立てたな」と思ってしまった。

いずれも、それまでどことなく研究室に漂いつつあったイライラが凝固する瞬間だと思うのだが、その「イライラ」の蓄積がちらちらと舞台の表面に蒸留されていく感じがしなかったのだ。だから、「上手に組み立て」ないと成立しないんじゃないか、とも思ったのだ。もちろん、戯曲に書かれた「事象」としては、イライラのタネが蒔かれてはいるのだけれど。

初演時はもっとそういう「イライラ」が、いつ発火してもおかしくないような密度で舞台を覆っていた気がする。演技を組み立てなくとも「巧まざる」瞬間が舞台上にあった気がする。要は「下手だったけど、素でスパークできるくらいの集団に合わせて戯曲が書かれていた」ということかもしれないとも思えてくる。

そう考えると、戯曲そのものが、現代の「よりイライラが表にでにくい」状況を反映して書き換えられても良いくらいのではないか、とさえ言えるのかもしれない。そういえば、初演時、
「でも、なんか、やじゃない?」
っていう、その場にいない人に対してすっごく兇悪な悪意に満ちた台詞がすっと出てくる場面があって忘れられないんだけど、そういう台詞がなくなっちゃった、それと同じレベルで、展開が若干変わっても良かったのかもしれない、とかいうことなのだが。

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