2017年4月26日水曜日

Who's Afraid of Virginia Woolf?

11/04/2017 19:30 @Harold Pinter

昨年なくなったエドワード・オルビー先生の有名戯曲「バージニア・ウルフなんてこわくない」を、Imelda Stauntonと(Game of Thronesでも有名な、でも筆者はMcPhersonのSeafarerでの演技が印象深かった)Conleth Hillで。
これまで、舞台でも映画でも未見だったのだが、各紙劇評でも素晴らしいとのことだったので当日券で。いやはや、本当に素晴らしかった。
オルビー先生が1960年代にこの戯曲を書いていたこと自体が既に素晴らしい。すぐれて現代にも通じる二組の夫婦のお話。

物事のよく分かった物知りさんによれば、これは、「二組の夫婦のあいだのエスカレートしていく罵り合いを通じて夫婦の偽善的な関係が暴きだされていくさまを描いた作品」らしいのだが、
筆者にはそういう風には見えなくて、
「いやいやいや、あの中年夫婦は罵り合ったり浮気したりさせたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、仲良く生きているんです。過去も、多分これからも。
若い夫婦も、これからずっと、借りを作ったり作られたり、嘘ついたりつかれたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、生きていくんです。
観客の皆さんも、それ、よーく分かってますよね。
くっさいドラマみたいに、幸せ夫婦が突如不幸のどん底に、とか、普通はないから。みーんな、程度の差こそあれ、こんな風にえっちらおっちら生きてくんだよね」
っていう、面白くも何ともない(でも激しくキッツい)現実を突きつけられているようにしか思えなかったのだ。

そういう、まさに、現代日本においてであれば深田晃司が映画にしているようなネタを、オルビー先生が50年前に戯曲にしていたというのが驚きだったんだ。
そうです。似たような話、「淵に立つ」で、深田監督が昨年カンヌで賞を取っている。

なんせ「淵に立つ」の宣伝文句が、「あの男が現れるまで、私たちは家族だった」である。
「バージニア・ウルフなんてこわくない」の宣伝文句は、「あの夫婦が現れるまで、私たちは家族だった」だったのに違いない。

両作品とも、現代の家族の折り合いの付け方を厳しく突きつめるという点で、キッツいのだけれど、でも、作品の結末は、必ずしも人生の終わりや夫婦の終わりではなくて、実は、始まりである。それも、「新しい希望への始まり」ではなくて、どん底の底へと落ちていくでもなく、希望の光が一条差すでもなく、まあ、折り合いをつけてやっていきましょう、という、現在地を確認したうえでの、「また始まるのかよ」っていう始まりなのである。しょうがねーなー。

そのやるせなさとキツさ、一方で、人間、結局そういう状況に折り合いつけちゃうんだよね、という切なさを、Staunton/Hillコンビが余計な色をつけずに演じきって、大満足な結果に。
最初の登場からガツーンとギアをトップに入れて、グイッと観客を引き込む手管。Stauntonの剛を柔でかわして自分のペースに持って行くHillだが、いやいや、そのリズムには愛が感じられて、こりゃ一筋縄で腑分けできない夫婦関係がそこにあるのだな、と思わせる。ウェストエンドの、ある程度年齢層の高い観客を相手にして、「分かり易さに走らない」演出とその意図をくんだ役者陣。本当に素晴らしいプロダクションだった。

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