2010年2月14日日曜日

フォースト・エンターテイメント 視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚

12/02/2010 ソワレ

当パンの劇評には「数百の断言を、あたかも火星人か質問好きな子供に世界を説明するかのように生真面目に語る」、作品解説には「世界のあらゆる事物をひとつひとつ言葉で定義しようとするかのようなスピーチ・アクトが、極限的にシンプルながらも演劇への本質論的、原理主義的アプローチとは無縁の簡素な無謀さで進行する、現代の百科全書」、とある。

公演する側がそういってるんだから、多分それが「正解」なんでしょう。

でも、舞台上では「名付け」「名乗り」こそが最初に起きる事件であり、実は舞台上の時間は「名付け」と「名乗り」の繰り返しこそを動力源としているとするならば、この舞台はまさに、「演劇への本質論的、原理主義的アプローチ」を採用しているといって差し支えないのではないかと思える。
まあ、作品解説の筆者が何をもって「演劇への本質論的、原理主義的アプローチ」とみなしているかは必ずしも明確ではないのだけれど。
三浦基風にいえば「自らの身体を担保とすることで観客の視線にさらされながら発語する」アプローチを、極めてストイックに展開していると理解した。

三浦風アプローチとの違いは、テクストの中に「わたし」が一切入らないことであり、「わたし」に関するコンテクストは一切テクストに織り込まれていない(風を装っている)ことである。

それでも、「他を定義し続けるあなたは、一体何者なのか?」という問いを、観客は発し続けているはずだ。その答えは、テクストのコンテクストの中に織り込まれているのかもしれないし、シンプルな衣装に身を包んだ男の身体にあるのかもしれない。

・ その人はおそらく40-50代の、教育を受けた、あるいは演劇の訓練を受けた、男性である。
・ 男のアクセントはシェフィールド訛りではない。ブリティッシュですらない。でも、r の巻き舌はアメリカ中西部や南部・西部ほど強くない。
・ 男は少なくとも elevator を lift という場所があることを知っている。
・ 男は靴下を「足の手袋だ」と定義する。
・ 男は「愛が何であるかを表現するのは難しい」という。
・ 男は「水と氷は同じものだ」という。
・ 時として男の持ち出すトピックの順番は、「意味」から連想されて引き出されたり「音の連関」で出てきたりする。

驚くのは、男が、自分の身体を、「観客が戯曲の世界を読み解くための担保」として差し出すことを徹底的に拒んでいることだ。テクストで定義され続けるものをどう組んでみても、一つの世界をそこから組み上げることは出来ないように思われる。その意味で、男の言葉の順番は、決してランダムではない。むしろ、「そこから世界や物語を組み上げることができないように」丁寧に選ばれ、並べられている。それでも観客は最後まで、「この人は誰か?この発語はどのようなコンテクストの中に置かれているのか?」と問い続けざるを得ない。

その緊張関係が演劇にとって本質であり、原理であるならば、まさにこのプロダクションは、演劇に対して本質論的・原理主義的なアプローチを採っているといって差し支えないし、「無謀さ」は、audacious ではあっても、impossible ではないということなのだろう、と思ったのである。

終演後、役者がニューヨークの方であると「予めチラシに書かれている」ことを知って、呆然。我ながらどうしたものかと思った。

あ、あと、「フォースド・エンターテイメント」は誰がいったか知らないが、はやいとこ「フォースト・エンターテイメント」に訂正してほしい。それとも、語尾を"d"と発音する特別な理由でもあるのか?

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