17/02/2010 ソワレ
「力強い」というのが第一印象だった。そして、今まで観た以上に輪郭がはっきりしている。
ラスト近く「三人称複数形のわたしたち」が出てきたときには、ガツンとやられた気がした。
今回のチェルフィッチュでは「一人称の話し言葉」ではなく、他者を語る「三人称での指し示し」の台詞が強調される。これは「すべての台詞は説明台詞である」という命題に逆らわず、かつ「舞台の上の役者の身体は台詞の如何に関わらず、そこに存在する」という命題を満たす。つまり、役者は台詞のテクストの発語に奉仕するけれど、物語の説明や観客の説得作業には奉仕しない。無関心を貫く。そういう態度の輪郭が非常にはっきりしていて、また、そういう態度こそが表現全体を力強くしているということに極めて自覚的であるように感じられた。
「指し示し」の台詞でシーンが進むというのは、ある意味、「ミッフィーちゃんの絵本」を、「起きていることを台詞での説明に委ねてしまう」のも、むかーし赤塚不二夫が天才バカボンでやっていた、「吹き出しの中は絵文字で、本来絵のあるべきところには言葉で絵の内容が説明してある - 裸の篠山紀信と浅田美代子が歩いている - みたいな」を、それぞれ思い出させて、面白かった。指し示して、人に伝えるってのは、そもそもがそういうぎこちない作業ではあるのだ。
そういう、表現の形に対する意識の輪郭がはっきり見えて、かつそれが面白いのだから、100分間、飽きずに集中してみていられる。すばらしい。今回は登場人物が「いわゆる若者言葉の人」でなくて、「海沿いの新築マンションを買うことができる人」と設定することで、「芝居の三人称性」が強調され、安易な移入を許さないような仕掛けになっているのも良い。
一体、チェルフィッチュの芝居を観る観客の中に、「海沿いの新築マンションを購入する若夫婦」がどれだけいるかを考えることは、余りにも下世話で、我ながらぞくぞくする。話横道にそれたが。
だからこそ、素晴らしいパフォーマンスだからこそ、口の悪い言い方をすれば「朝日新聞チックな」「他人の不幸と併存する自分の幸福」という構図を浮き彫りにする方法には、違和感を覚える。一つは、ラスト、「わたしたち」を三人称複数からYou & Usのわたしたちに置き換えて呼びかける部分。こうやって呼びかけなければ、「三人称複数の私たち」に観客が気がつかないとでも思ったのだろうか。「なんだかちょっと気持ち悪い」でとどめても良かったのではないか。また、「海沿いの新築マンションを買う幸福」は、「朝日チック」な幸福と不幸の対比を示すには都合の良い設定かもしれないけれど、ちと安易ではないか、だって、本当は、もっと微細なところに幸福はあって、もっと微細なところに罪悪感や不安感はあるのではないか。観客に「やさしい」設定や糸口を用意することで、むしろこの力強い表現のベースにある微細なものが、「分かりやすいものを受け入れた観客によって」捨象されてしまうのではないか、という気もしたのです。
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