18/10/2014 ソワレ
初日。再演でも、再々演でも、何度でも観たくなる作品。 岩井秀人は、演劇・テレビドラマ・小説・映像、どのメディアを選択しても「このメディアを使うことで、他のメディアでは実現できなかった"これ"ができちゃうんだ!だから使うんだ!」という必然性を感じさせてくれる。「生むと生まれる・・・」も「終電ご飯」もテレビドラマならでは、って思ったし、「ヒッキー」の小説も「あぁ、小説だからこそこういう展開に出来る」って思ったし、「ヒドミ」も、ただミシェルゴンドリーがやりたかったから、というところにとどまらない必然性とクオリティを感じる(実際、ヒドミの元ネタがゴンドリーだと岩井氏が書いていたのを読んで、僕もゴンドリーのDVD買って観てみたのだけれど、ここがパクリ、っていう箇所は結局分かんなかったし・・・すんません・・・)。
正直、前半から中盤の生身+映像の組み合わせは、「必然」だとは思わないし、むしろ「こんな使い方も面白いよねー」という感覚を楽しむ程度だと思う。ところが、サブローの回想シーンから、いきなりグワッと迫ってくるんだ。 今のヒドミとその傍らの男と、昔の自分とその彼女とを見るサブロー。そしてそれを観る僕。僕の記憶。何と残酷な、思うようにならない世界。ただし希望はある。どっかに一筋くらいはあるはず。でも、僕が観たその希望は喜びに満ちていない。ただただ切ない。
いや、でも、その切なさって、非モテかつ文字通り見た目の通りキモメンなサブローが、よせば良いのにヒドミにある意味横恋慕して、案の定振られて、で、自分が生き返れるチャンスは人に愛されるときだなんて信じ込んじゃって、「おまえ、ヒキガエルになった王子様気取りかよ!」って突っ込みたくなるんだけれど、そうやって、3年後の朝の76個目のコンクリートの塊の一瞬にチャンスをかける、って、それ、切ないって言って良いのか?身勝手にもほどがないか? いや、いいんです。切ないです。サブローと同じくらい非モテな僕が言うんだから良いんです。その僕が観ていて切なくなる分には放っておいてくれよ!って、言いたくなる。そういうことです。
3年後の朝の76個目のコンクリートの塊にチャンスをかけたって、報われる見込みはまずなくて、ないんだけれども妙にこだわってみたりして、というのも過去の幸せな一瞬がサブローの記憶に残っていて、でも、それはあくまで過去の話で、その記憶もいつかうすーくなって消えて行ってしまう。ような気がする。だからこそ敢えてそこにこだわってみる。一瞬に賭けて、待ってみる。元手は過去の幸せの記憶。そうだ。希望ってのは、幸せの記憶があってこそ成り立つものなのだ。
その、サブローの現在と、記憶と、未来と、観ている僕の現在と、記憶と、ありうべき未来がまぜこぜになって在るのが、舞台+投影+客席=ヘリコプターで、それって、映像なしでは成立しなかっただろうし、そこで呼び起こされた僕の幸せな記憶や切ない思いは、まさに、その一瞬にぱぁっと咲いて、劇場を出たらたちまちぼやーっと形を失って、こうやって無理矢理キーボードに向かわなきゃ、きっと雲散霧消してしまう類いのものなのだ。きっと。でも、そこで感じた切なさだけは、国道16号線の標識の残像とともに僕の記憶のどこかに残っていて、「ヒドミやるんだ」って聞くと、また観に行きたくなってしまう。そういうことなんだろうな、って思う。
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