2014年11月1日土曜日

iaku 流れんな

01/11/2014 マチネ

iaku、初見。
1時間半、5人の役者でタイトに紡ぐ現代関西圏口語演劇。息つく間もなく一気に観た。
すっごく丁寧に編まれた会話とプロット、役者は抑制を効かせた分だけ、その場のケレンは最小限に、芝居をぐいぐいと前に進める原動力となって、本当に観ていて飽きなかった。
凡百の首都圏現代口語演劇芝居では味わえない密度とドライブ。
芝居観ながら、洪雄大氏の名台詞「エッジの効いたスリーピースを」を思い出して、こういう(作者自身「ストイック」と呼ぶような)芝居って、エッジの効いたストレートなロックンロールを聴かせるバンドのようなものだなぁと感じた。

なにしろ台本が上手い。救いのない状況に登場人物を放り込んで、ただしその落っこち方を観ている観客としては笑うしかなく、その笑いを意外な発言・行動でひねり殺して、状況を推進させる。それは、まあ、ウェルメイドの手法なのかもしれないけれど、その手法が「物語」の説明に奉仕することなく、芝居の「状況」を踏み固めることに貢献していた。「物語」ではなく「状況」と書くのは、まさにこの芝居が(ほぼ)1幕ものの現代口語演劇だからで、背景の物語を示す説明台詞もかなり手際よく処理して、相当の書き手である。「会話劇」の中心には姉妹がいるのだけれど、そこに配置された男優三人の、「何で俺たちこんなシチュエーションに居合わせてしまったのか」な佇まい、しかもそう思っているくせに「しまった、なんでオレ、こんなこと口にしてしまったのだ!」な言動をとる間抜けさ加減。それを殊更に強調せず、抑えた演技で楽しませてくれた。

北村守さんの「指」の動き。登場からラストシーンまでしつこく動かして、最後に「ああ、こういう使い方か!」と納得。
緒方晋さんの、特に後半黙りこくって以降の横顔(往年の影山雷樹さんを彷彿とさせて・・・)。
酒井善史さんの、舞台上のポジショニング。フットボールと同様、ボールを持っていないときのスペースの使い方が上手い、の一言。
ということで、男優3人には見とれてしまったのだけれど。それでは、女優2人がどうだったかといえば、うーん、そこで、この戯曲の弱点2つに触れざるを得ず、その1つが、「主人公視点の一人称芝居から抜け切れていないこと」、2つめが「妹の作り込みの(もしかしたら意図的な)欠如」。それらがやっぱりどうしても気になってしまって、勿体ない。

1点目。主人公の視点から抜け切れていないこと。そもそもこの戯曲自体が主人公の長女の話なので、仕方がないのかもしれないけれど、3人の男たちに対する作者の視点が、非常に冷めた「君たちは本当に救いのない人たちだなぁ。でも、笑ってやる」的な「突き放した」ものであるのに対し、長女に対してだけは、そうした「突き放した」態度を取り切れていない印象。それは、これだけのストイックな芝居で1時間半走らせるためには必要な「軸となる視点」なのかもしれないけれど、いやいや、それじゃあ下手すると「主人公がんばれ」な芝居で終わっちまうぞ、と。この長女をさらに突き放して見させるような仕掛けがもう一つあったら、「現代口語演劇のフォーマットをまとった一人称芝居」から、「フォーマットをぶっ飛ばした傑作芝居」になっていた気もする。

2点目。主人公視点の物語から抜け出せなかったもう一つの原因は、次女の作り込み不足ではないかと。これは、演出・役者の責任ではなく、戯曲の書き込み不足、いや、もしかしたら意図してのことかもしれないが。というのも、5人の登場人物のうち、「いつもは何をしている人なのですか?」「過去に何をした人なのですか?」というイメージ・質問が一切出てこず、エピソードも語られないのが、この、妹なのである。それで、舞台上でずーっと不機嫌な妹は「ただの不機嫌な人」としか見えず、あるいは、姉を追い立てる人としか見えず、バックグラウンドが不明瞭な分だけ、そう、クリスマス・キャロルの幽霊のように主人公を(過去のつらい記憶へと)ガイドする幽霊の「機能」を果たす役割だけを敢えて負わせているのではないかとの疑念を抱かせた。そうなると、役者を見る目としては「この人、割を食っちゃったな」と、変に気を回した見方になってしまうんだよなぁ。

いやしかし、初見でこれだけクリアーに色んなこと考えさせてくれるプロダクション、素晴らしかったです。

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