13/02/2011 マチネ
初日。
ぐほっ。見終わった直後は、本当に、「ううぅー、分からん」と思ったのだ。
しかも途中、余りの分からなさに、眠ってるんじゃなくて「視線が宙を泳いだ」りして。
昔読んだSFで、四次元の知的生物とコミュニケーションとる、っていうのがあった。コミュニケーションの相手は四次元の生き物なので、三次元に出てくる「彼」の切り口は何だか訳の分からない毛むくじゃらの固まりで、それをくるくる回すと「彼」のコミュニケーション器官が三次元に出現して会話成立、みたいな、まぁ、SFだからというのもあるが無茶苦茶な話だったのだが。
今回の岡崎藝術座はそういう印象。一つか二つか高い次元のものの切り口が三次元に現出した現場に居合わせてしまった、というような。
だから、色んなものが、三次元では脈絡無いように見えても、実は繋がっていて、それは「伏線」とか「裏設定」というような陳腐なものではなくて、もっと広い世界が向こう側にある。いや、あるかないかは全く分からないけれど、少なくとも「あるように思えてしまう」。そういう事柄の行き来に、少なからず置いていかれる局面があった。そして、そうした「色んなもの」は、最後まで加速度を持たずに、物語も持たずに、終わり、そして、どこかに行ってしまった。まさに、置いてけぼりである。
何日か経つにつれて、「言葉の発信機」としての役者とか、「素」と「役」を行ったり来たりする、その振れ幅や「接近と離反」や破れの瞬間が、これまた加速度や物語を伴わずに思い出されて、やはりうぅーんと唸ってしまう。
「ガールズトーク」に怖気づいたのかなぁ、引いたのかなぁ、とも思ったのだが、いやいや、僕の興味は、トークの内容の「出典」なんだ。稽古場で拾うのか、女性週刊誌で拾うのか、全部神里氏の個人的な知識の賜物か、本当はそういう興味に邪魔されて芝居に集中できなかったんだよ、という言い訳がしたいだけかもしれないが。
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