2011年2月22日火曜日

青年団若手自主企画 不機嫌な子猫ちゃん

21/02/2011 ソワレ

千穐楽。田川啓介作・演出作品は初見。

観に行った理由は青年団女優陣です、というのが正直なところだったのだが、なかなかどうして、戯曲・演出に力あり。ラストシーンの手前の暗転になって、1時間半近く経っていたのかと驚くような出来映えで、すっかりやられた。

人と人とは結局は100%は分かり合えないし同じにもなれないわけで、「すっかり分かってる」なんてうっかり言うと、マイルス・デイヴィスから「俺の言ってることが全部分かるなんで、それじゃあお前は俺じゃないか」って言われてしまう。その最後まで埋められない距離感はお互いが近付けば近付くほど余計に感じざるを得ず、それを僕は「人間関係の漸近線」と呼んでいる。決して発散はしないけれど、交わることはない。

一般論として言えば、その「分からなさ」「違い」を前提に、そこからどうポジティブな関係を積み上げるかが勝負どころなんだと思う。ちょっと説教臭いが。一瞬2つの曲線が平行に見えることがあって、そこに一本直線を引くと交点に生じる「錯覚」は互いに等しく、そこに恋愛とか何とかが生まれる余地が生じるってのもちょっと劇的だけど(本文後半部分の出典は平田オリザ「ケーニヒスベルクの橋」)。

この作品では、その「一致しなさ」を母と娘のベタベタな関係で示していく。前半は、母・娘・叔父・ボーイフレンドを使って、4人の持つ曲線がお互いにどのような距離をもって近付き、遠ざかり、そして決して交わらないかを丁寧に描写していく。

その描写の仕方に、先ず驚く。「母と娘の関係」を持ち出したところで、この芝居のシチュエーションは充分に紋切り型である。舞台上のシンプルな舞台装置はテーブルと二脚の椅子。その中で次々に繰り出される紋切り型の台詞。一歩間違うと向田邦子ワナビーのふやけた芝居で終わりかねない。あるいは悪意だけが先走る擬似親子物語。ところが、紋切り型の台詞の順序や使い方が、この作品をどうにもねじくれた(つまり、どこに進むか先が見えない、観ていて飽きない)芝居へと運び上げる。

紋切り型といえば、開演前から舞台にいる男優が、どうにも現代口語演劇の紋切り型で(青年団のソウル市民の開演前に登場する大工が、「存在感」をもって舞台に「居る」のに対して、春風舎にいる善積元のなんともいえないペラペラさ!)気になったのだが、それも作・演出の手の内かと合点がいく。中盤、兵藤公美と井上三奈子、村井まどかが舞台から客席へとせり出してくる遠近法は、どうにもテレビドラマの遠近法の借り物で、そういう見せ方の紋切り型は、「互いに人間関係を結ぶこと」+「他者に対して人間関係を演じて見せること」を立体的に見せてくれる。

そうやって前半で丁寧に型どった曲線の関係を後半で一気に壊しにかかるのだが、ここでもすっかり不条理劇の紋切り型を活用しながら、実は、「紋切り型を活用している」「紋切り型の登場人物」の奥底を想像させて心地よし。

「人が何考えてるかなんて、表面からじゃわかんないでしょ?」っていって紋切り型を一切排そうとしたのが現代口語演劇の出発点だったとすると、田川啓介の芝居は、「だから、紋切り型をいくら使ったって、何考えてるかなんてわかんないのは同じだよね」というところに一捻りして、しかも紋切り型の罠に嵌らずに見せきった。たいした力技である。それにまた応えられるというのも青年団俳優人の力量、推して知るべし。

というところを踏まえて、敢えて注文つけるならラストかなぁ。無理矢理「一切の始まりの収束点」を用意しちゃったところがなぁ。本当は、二本の双曲線と漸近線の狭間のなんとも埋めようもない空間を引き受けて、そこでぐいっと踏み出すところから世界は始まるんじゃないかと思っていたりもするので。いや、しかし、それは個人的な注文ってことか。いずれにせよ、90分弱、たっぷり堪能した。大満足。

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