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2017年3月19日日曜日

深田晃司「淵に立つ」

14/10/2016 @角川シネマ新宿

昨年10月から当ブログ滞っていたのだが、まぁ、色々な理由や言い訳はある。「エディンバラ」から「初期チェーホフ三本立て」の流れで観劇疲れしてしまったとか、ちょっと他のことで芝居にかかわってたとか、この年になって初めて買ったPS4にハマったとか、色々ある。
で、それらが落ち着いて、再開しようとするにあたって、どこで中断してたのかを確かめたら、なんと、というか、予想通り、なのか、「淵に立つ」の感想が書けていなかったのだった。
すごく腑に落ちる。「淵に立つ」について人にどう語るかがモヤモヤして、半年間糞詰まっていたのだ。ある意味。

もしかすると、「淵に立つ」を観たら芝居を観に行く気がしなくなっていた、ということかも知れない。昔、中上健次の小説をいくつか読んだ後、本を読むのが嫌になったのを思い出したりする。

で、なんで糞詰まるのかっていうと、多分、筆者は、「淵に立つ」が気にくわないのだ。
最初に書いておく。筆者は深田監督への身びいきが激しい方だと自認しているし、師匠からそのことを指摘されて逆ギレしたりもする。れっきとしたファンだと思っている。だけれども、多分、僕は、「淵に立つ」について、「(他の凡百の映画と比べて)出来の良い作品だと思う」けれども、「素晴らしい作品だ」と言いたくないのだ。

話はちょっと変わるが、昔、たしか、開高健さんのエッセイで「100%牛肉のハンバーグ、つなぎなし!のハンバーグを食べようと思ったら、フライパンの上でぽろぽろに崩れて、食べられなかった」という話を読んだことがある。つなぎの量や配合の好みは人それぞれ、どれが正解ということはないと思う。が、つなぎの量に加えて、肉の質、味付け、焼き方、いろんな条件によって、確かに美味しいハンバーグと不味いハンバーグはある。
映画の作り方もちょっとそれに似たところがあると思っている。思いっきり化学調味料ぶっ込んだ映画も沢山あるし、具材で勝負の映画もある。

「淵に立つ」は、そういう意味で、まず、好もしい映画だ。殊更に強い調味料を使わない。観る人によって色々な味わい方があるし、味わい方によって色々な味がする。だから、きっと何度観ても楽しめる。そして何より、筆者にとって好もしいのは、「物語のつなぎの量を抑えている」ことだ。それは、深田監督作品について、僕がいつも思うことではある。

で、それを踏まえて、自分に気にくわなかったところを幾つかあげる。<以下、ネタバレ>

1. 浅野さんの赤いTシャツは「勝負Tシャツ」なのか?あれは、「荷造りが出来ていた」ことから推察すると、「旅立ちTシャツ」だったのか?それとも、いつも赤いTシャツで、たまたまローテーションがその日に当たっていたのか?ちょっとその後の出来事を予見させすぎてないか?
2. 事件のあった公園に「痴漢に注意」の看板が一枚映り込んでいたら、「浅野がやったのか?」がますますよく分からなくなっていたのではないか?
3. 河原で浅野がすごむシーン、あれ、声を荒げない方がもっと怖かったのでは無いか?あるいは、優しい声だった方が、その凄みが現実なのか「古舘寛治の脳内」が分からなくて良かったのでは無いか?
4. 後半の筒井さんのキレイ好きは、普段から露骨に見えるのでは無くて、「普通」の中から間歇的に噴き出してきても良かったのではないか。

うーむ。映画観て半年たっても、やっぱりこういう細かいところばかり気に掛かるのか。細かいというか、「ツナギを入れすぎないハンバーグ」がウリの店に来て、「もっとツナギを削れ」と難癖つける客のようなものだ。
我が師曰く「あんたの趣味に合わせて作ってたら、映画として観るに堪えないものになっちまう」。・・・然り。

「ツナギ」は、この映画を語るコンテクストでは、「観客が、スクリーンに映っている事象に基づいて、物語を組み立てるための材料・ヒント」ということになる。
「淵に立つ」の解釈の多様性は、深田監督が意図して「ツナギ」を削ることで増すのであって、そのツナギの分量のバランス感が、映っていないところにもあるはずの世界の豊かさを保証しつつ、一方で観客を途方に暮れさせない役割を果たす。本作品のバランスは、まず、「実験作」ではなくて、「秀作」と呼ばれるに相応しいと思う。

で、面白いのは、その「ツナギ」のまぶし方の差配が、作中の各登場人物の生き方・見え方をも支配しているように思えることだ。
例えば、前半、浅野さんについては「かなりあからさまに」示されるツナギ要素として、「ぎこちなさ」がある。彼のぎこちなさが、豊富に提供される物語要素 - 殺人、服役、裏切り、欲望 - と、それを制御しようとする日常とのギャップから来るものである、という説明を、いわば親切にしてくれているのである。

ところが、後半、太賀さんの登場後、深田監督は、物語要素 - 親子関係、母の状況、等々 - を太賀に向かって放り込むにもかかわらず、太賀がとる行動は、それらの物語のコンテクストに、「影響を与えていないように見える!」のだ。太賀は、あたかもそういったコンテクストとかけ離れたところで生きている。彼の行動が何に規定されているのかが全く分かんない。これが、実は、この映画を観てて、筆者が

すげえ! 謎すぎ!

と思った箇所だ。
裏を返すと、父親・母親・友人の、3人の大人たちの演技は、相当程度コンテクストに規定されている気がした。太賀と娘(後半)の取る行動が、コンテクストと無縁である(娘のケースでは無縁にならざるを得ない)ことを引き立てるために、大人3人の「コンテクストからの自立」が制限されている気がしたのだ。それは、僕にしてみれば勿体ないと映る。「もっとツナギ削ってもいいんじゃないの?」っていうことだ。

でも、ひょっとすると、そういうことを考えている時点で、筆者は深田監督の術中に嵌まっているのかも知れない。
というのは、この映画で示されているのは、5人の主要登場人物がそれぞれに物語を生きる様は、あたかも、相手にも札が読めないインディアンポーカーのようなもので(結局は、その中にいる人には自分の物語すら俯瞰することが出来ないのだから)、

・ 自分は自分で一つの物語を背負って生きて行かざるを得ない。
・ 自分の物語を他人が見ることが出来ているかというと、必ずしもそうではない(たとえそれが家族であっても)。
・ でも、自分の来歴と現実のギャップは、何かにつけて噴き出してくる。それは、他者にとって受け容れがたいかも知れない。他者に気がつかれていないかも知れない。
・ 自分は、他者と生活するに当たって、そこから始めなくてはならない。物語を完全には共有することが出来ないところから。
・ そこに、「とにかく何でも良いから、どこかで折り合いをつける」ところから、やっと一歩踏み出せる。

それは絶望的な状況では無くて、むしろそれに直面して、インタラクションが始まって、っていうことなので、実は、それは、ポジティブな人生賛歌なのだ、と、筆者は思う。
だから、ラストシーンは、絶望的なラストではなくて、そこから色んな方向に踏み出すことが出来る、始まりのシーンで、だから、この映画はすっごくキツいけど、勇気の出る、前向きな映画なんだ、って思う。

筆者にはそう見えている。だから、この映画は、「不気味」でも「ホラー」でもない。人生賛歌じゃないか、って思う。
「あの男が現れるまで、わたしたちは家族だった」っていうキャッチ、やめてくれ。「いわゆる家族」から「折り合いをつけて一緒にやっていこうとする家族の出発点」に立ったんだから。って思う。
浅野さんの「不気味演技」やめてくれ、って思う。他人と生きることって、それだけで十分不気味なんだから、って思う。

ということについて、深田監督がどう思っているのかは分からない。ツナギの差配の具合が上手くいって、カンヌでも評価されたのかも知れない。
でも、もっとツナギを削っても(少なくとも僕には)面白いはずなのに、不気味な映画と呼ばれて、そういうところで「怖い」とか「素晴らしい」とかっていう評判が立っていることに、筆者は、少なくとも、苛立っている。だから、「素晴らしい」とは言いたくない。

そういう思いで、半年たってもまだ、「淵に立つ」のことを考えています。

2016年7月13日水曜日

Apichatpong Weerasethakul - Memorandum

29/05/2016

今年のクンステンフェスティバルの会期中、関係者の間では常にApicatpongの名前が囁かれていると聞いていたので、これは観に行こうと、フェスティバル最終日に飛び込みで。恥ずかしながらこれまで彼の映画を観たことは一度もなかったのだけれど、だからこそ、なのか、でも、なのかは不明だが、全く飽きずに会場にいられた。ショートフィルムや、映画の断片のようなシーンが会場に並べられていて、現代美術のインスタレーションの展示とさほど変わるところもない。

光の具合、色の生々しさ、敢えて物語のペースからは外れて、違う場所へと意識を持って行ってくれようとしているようで、心地よかった。作者のストーリーをごり押しせずに、観ている人々に組み立てさせようとしているのではないかと思われ、だから、カメラの視点も妙なところに置かれていて、そこにも僕の妄想が働く余地がある。

廃屋か倉庫のような建物の中に差し込む日光が生み出す光と影の変化を一日追い続けてみたり、森の中に開けた場所にぽつんと置いたベンチに、若者達が順番に並んでポートレイトを撮って貰ったり、骨董というほど古くもないが成金というほどピカピカでもない石像達をずっと追ってみたり、人工透析を繰り返したり、可愛くも何ともない若い男性の寝顔を追い続けたり。押しつけてないんだけれども印象に残る。これは大変な人だ、と思う。

家に帰ったら、買って観ないままに放置しているUncle BoonmeeのDVDを観ようと決めた。観たら、それもやはり大変素晴らしい映画だったのだ。

2016年5月12日木曜日

Miles Ahead

01/05/2016 16:15 @Leicester Square Empire

マイルズ・デイヴィスが出てくる映画と聞いては、何を差し置いても見に行かざるを得まい。そんなん観ねえよバーカっていう顔した師匠を置いて、一人、ロンドン映画のメッカ、レスタースクエアのエンパイアへと向かった。三連休の中日の日曜日のレスタースクエア、人の溢れる中をかき分けてやって来ましたLeicester Square Empire Screen 6、定員21名。21人入ると一杯の映画館。スクリーンの大きさは、深田道場で走り穂に張った白布とほぼ同サイズ。つまり、レスター・スクエアとは名ばかり、ビッグスクリーンと呼ぶには多少しょぼかった、ということである。

しかし、大いに愉しんだ。Don Cheadle扮するマイルズと、Ewan McGregor扮するヤクザなジャーナリストとが繰り広げる冒険活劇。昔の音源に合わせて演技するライブやレコーディングのシーンも楽しいし、マイルズとマクレガーのコンビが盗まれた未公開リハーサルテープを巡って繰り広げるカーチェイス、ヤクザとの駆け引き、銃撃戦等々も楽しい。事件に巻き込まれる若手トランペッター”Junior”もいい味を出しまくって、これぞマイルズ主演のアクション娯楽映画、存分に楽しむぞ、と。

Don Cheadleによるマイルズの物まねも気合いが入ってて、好感度大。ジョージ・バトラーやギル・エバンズ、マイルズの妻フランシス、50年代セクステットから60年代クインテットまで、物真似さんをざっと揃えてこれも楽しい。ラスト近く、ブランクで唇がなまったマイルズとJuniorのやりとりがちょっとホロッとさせて、しかも、その後のマイルズの復活した姿を生で聴いている世代としては「ここで終わんないんだよ!」って心の中で叫んじゃったりして、大いに満喫いたしました。


2016年5月10日火曜日

乱

17/04/2016 14:00 @BFI Southbank

シェークスピア没後400年と言うことで、British Film Instituteでも、シェークスピア映画特集が組まれている。今回は黒澤明監督、リア王を下敷きにした「乱」。こういうのがビッグスクリーンで観られる機会を逃してはいけない、ということで、出かけてきた。

やはり、ビッグスクリーンは良い。大画面の迫力は勿論、スクリーンの端っこに映り込んでる小さなものまでくっきり見えて、大いに堪能。
仲代達矢の目がでかい!そのでかい目を存分に駆使して「戦国時代にリア王を持ち込む」なんていう無茶ぶりを受けて立った役者魂!
そして、戦闘シーンが痛い。犬死にしていく雑兵を執拗に繰り返し映す。痛い。
寺尾聰の死亡フラグ、根津甚八のだめっぷり、隆大介の真っ直ぐぶり、原田美枝子の格好良さ、どれをとっても、役者やスタッフのキャパシティが真っ直ぐすくすくと伸びて画面上に広がって、大作に仕上がっている。スケールの大きい巨匠の仕事とはこういうことか。

2015年8月10日月曜日

Hard To Be A God (邦題 神々のたそがれ)

09/08/2015 @Curzon Bloomsbury

新聞のレビューが異常に良いのでついつい観に行ってしまったが、3時間、観終わって、どぉぉおーーん、という気持ちで映画館を出た。

ブリューゲルの絵に出てくる、遠近法の効いてない妙にニヤニヤした顔の人間達が、
3時間にわたってそのままの表情で人を殺し、吊るし、鼻をつまみ、耳をつまみ、鼻血を出し、つばを吐き、痰を吐き、鼻汁を出し、後ろから股間を掴み、殴り、はたき、虫を握りつぶし、人の顔に止まってる奴は叩きつぶし、泥を掴み、糞を掴み、顔に塗りたくり、音を立てて酒をすすり、それをぶぶーっと人の顔に向けて噴き出し、湿地に近い中世の世界のズブズブの泥の中を歩き続ける。それが3時間延々と続く映画。
地球よりも800年遅れた惑星に、神様(=地球からやって来た、一種オールマイティーの科学者)を放り込んでドキュメンタリータッチで撮影しました、という感じで。

カメラの前に割り込んできたり、突如通行人の汚ねえにいちゃんがカメラ意識してニマーと笑ったり、突如髪の毛が大写しになったり、そもそも映像も遠近を意識させてくれない(都度都度観客としての立ち位置を確認させてくれない)し、物語の構成も余計な説明は一切してくれないし、そんな時間があるのなら3人余計に吊してやる、くらいの勢いである。そういうものを観客に見せる、人前に出すために3時間映画館の空間を埋め尽くす、という意味で、そのイッちゃってる感が、ブリューゲルの、遠近無視、ひたすら画面を埋め尽くすニヤニヤ顔の連中が蠢く絵に近い。

Hard to be a Godって「神様はつらいよ」なんだけど、その意味は、もう、観客一人一人に任せるよ、って感じ。ともかく画面の情報量が異常に多くて、絶対に一回じゃ処理しきれない分量。一方で、そもそも白黒の暗い画面で、ブリューゲルのニヤニヤ顔の見分けはつかないし、唐突の神様会合も何が何やら分からんし、物語の展開に拘らないで観てると必然的に鼻水や唾や血や汚泥に目が行っちゃうし。いや、あんな世界に現代人送り込まれたら、そりゃハードシップ手当相当もらわないと持たないだろうけれど。

これを毎週とか毎日見させられたら気が狂いそうだが、それは、ブリューゲルの絵を24時間まんじりともせず見続けたら気が狂うかな、くらいの意味であって、いや、すごい体験をした、確かにすごい映画だよ、と納得して帰ってきた。