14/10/2016 @角川シネマ新宿
昨年10月から当ブログ滞っていたのだが、まぁ、色々な理由や言い訳はある。「エディンバラ」から「初期チェーホフ三本立て」の流れで観劇疲れしてしまったとか、ちょっと他のことで芝居にかかわってたとか、この年になって初めて買ったPS4にハマったとか、色々ある。
で、それらが落ち着いて、再開しようとするにあたって、どこで中断してたのかを確かめたら、なんと、というか、予想通り、なのか、「淵に立つ」の感想が書けていなかったのだった。
すごく腑に落ちる。「淵に立つ」について人にどう語るかがモヤモヤして、半年間糞詰まっていたのだ。ある意味。
もしかすると、「淵に立つ」を観たら芝居を観に行く気がしなくなっていた、ということかも知れない。昔、中上健次の小説をいくつか読んだ後、本を読むのが嫌になったのを思い出したりする。
で、なんで糞詰まるのかっていうと、多分、筆者は、「淵に立つ」が気にくわないのだ。
最初に書いておく。筆者は深田監督への身びいきが激しい方だと自認しているし、師匠からそのことを指摘されて逆ギレしたりもする。れっきとしたファンだと思っている。だけれども、多分、僕は、「淵に立つ」について、「(他の凡百の映画と比べて)出来の良い作品だと思う」けれども、「素晴らしい作品だ」と言いたくないのだ。
話はちょっと変わるが、昔、たしか、開高健さんのエッセイで「100%牛肉のハンバーグ、つなぎなし!のハンバーグを食べようと思ったら、フライパンの上でぽろぽろに崩れて、食べられなかった」という話を読んだことがある。つなぎの量や配合の好みは人それぞれ、どれが正解ということはないと思う。が、つなぎの量に加えて、肉の質、味付け、焼き方、いろんな条件によって、確かに美味しいハンバーグと不味いハンバーグはある。
映画の作り方もちょっとそれに似たところがあると思っている。思いっきり化学調味料ぶっ込んだ映画も沢山あるし、具材で勝負の映画もある。
「淵に立つ」は、そういう意味で、まず、好もしい映画だ。殊更に強い調味料を使わない。観る人によって色々な味わい方があるし、味わい方によって色々な味がする。だから、きっと何度観ても楽しめる。そして何より、筆者にとって好もしいのは、「物語のつなぎの量を抑えている」ことだ。それは、深田監督作品について、僕がいつも思うことではある。
で、それを踏まえて、自分に気にくわなかったところを幾つかあげる。<以下、ネタバレ>
1. 浅野さんの赤いTシャツは「勝負Tシャツ」なのか?あれは、「荷造りが出来ていた」ことから推察すると、「旅立ちTシャツ」だったのか?それとも、いつも赤いTシャツで、たまたまローテーションがその日に当たっていたのか?ちょっとその後の出来事を予見させすぎてないか?
2. 事件のあった公園に「痴漢に注意」の看板が一枚映り込んでいたら、「浅野がやったのか?」がますますよく分からなくなっていたのではないか?
3. 河原で浅野がすごむシーン、あれ、声を荒げない方がもっと怖かったのでは無いか?あるいは、優しい声だった方が、その凄みが現実なのか「古舘寛治の脳内」が分からなくて良かったのでは無いか?
4. 後半の筒井さんのキレイ好きは、普段から露骨に見えるのでは無くて、「普通」の中から間歇的に噴き出してきても良かったのではないか。
うーむ。映画観て半年たっても、やっぱりこういう細かいところばかり気に掛かるのか。細かいというか、「ツナギを入れすぎないハンバーグ」がウリの店に来て、「もっとツナギを削れ」と難癖つける客のようなものだ。
我が師曰く「あんたの趣味に合わせて作ってたら、映画として観るに堪えないものになっちまう」。・・・然り。
「ツナギ」は、この映画を語るコンテクストでは、「観客が、スクリーンに映っている事象に基づいて、物語を組み立てるための材料・ヒント」ということになる。
「淵に立つ」の解釈の多様性は、深田監督が意図して「ツナギ」を削ることで増すのであって、そのツナギの分量のバランス感が、映っていないところにもあるはずの世界の豊かさを保証しつつ、一方で観客を途方に暮れさせない役割を果たす。本作品のバランスは、まず、「実験作」ではなくて、「秀作」と呼ばれるに相応しいと思う。
で、面白いのは、その「ツナギ」のまぶし方の差配が、作中の各登場人物の生き方・見え方をも支配しているように思えることだ。
例えば、前半、浅野さんについては「かなりあからさまに」示されるツナギ要素として、「ぎこちなさ」がある。彼のぎこちなさが、豊富に提供される物語要素 - 殺人、服役、裏切り、欲望 - と、それを制御しようとする日常とのギャップから来るものである、という説明を、いわば親切にしてくれているのである。
ところが、後半、太賀さんの登場後、深田監督は、物語要素 - 親子関係、母の状況、等々 - を太賀に向かって放り込むにもかかわらず、太賀がとる行動は、それらの物語のコンテクストに、「影響を与えていないように見える!」のだ。太賀は、あたかもそういったコンテクストとかけ離れたところで生きている。彼の行動が何に規定されているのかが全く分かんない。これが、実は、この映画を観てて、筆者が
すげえ! 謎すぎ!
と思った箇所だ。
裏を返すと、父親・母親・友人の、3人の大人たちの演技は、相当程度コンテクストに規定されている気がした。太賀と娘(後半)の取る行動が、コンテクストと無縁である(娘のケースでは無縁にならざるを得ない)ことを引き立てるために、大人3人の「コンテクストからの自立」が制限されている気がしたのだ。それは、僕にしてみれば勿体ないと映る。「もっとツナギ削ってもいいんじゃないの?」っていうことだ。
でも、ひょっとすると、そういうことを考えている時点で、筆者は深田監督の術中に嵌まっているのかも知れない。
というのは、この映画で示されているのは、5人の主要登場人物がそれぞれに物語を生きる様は、あたかも、相手にも札が読めないインディアンポーカーのようなもので(結局は、その中にいる人には自分の物語すら俯瞰することが出来ないのだから)、
・ 自分は自分で一つの物語を背負って生きて行かざるを得ない。
・ 自分の物語を他人が見ることが出来ているかというと、必ずしもそうではない(たとえそれが家族であっても)。
・ でも、自分の来歴と現実のギャップは、何かにつけて噴き出してくる。それは、他者にとって受け容れがたいかも知れない。他者に気がつかれていないかも知れない。
・ 自分は、他者と生活するに当たって、そこから始めなくてはならない。物語を完全には共有することが出来ないところから。
・ そこに、「とにかく何でも良いから、どこかで折り合いをつける」ところから、やっと一歩踏み出せる。
それは絶望的な状況では無くて、むしろそれに直面して、インタラクションが始まって、っていうことなので、実は、それは、ポジティブな人生賛歌なのだ、と、筆者は思う。
だから、ラストシーンは、絶望的なラストではなくて、そこから色んな方向に踏み出すことが出来る、始まりのシーンで、だから、この映画はすっごくキツいけど、勇気の出る、前向きな映画なんだ、って思う。
筆者にはそう見えている。だから、この映画は、「不気味」でも「ホラー」でもない。人生賛歌じゃないか、って思う。
「あの男が現れるまで、わたしたちは家族だった」っていうキャッチ、やめてくれ。「いわゆる家族」から「折り合いをつけて一緒にやっていこうとする家族の出発点」に立ったんだから。って思う。
浅野さんの「不気味演技」やめてくれ、って思う。他人と生きることって、それだけで十分不気味なんだから、って思う。
ということについて、深田監督がどう思っているのかは分からない。ツナギの差配の具合が上手くいって、カンヌでも評価されたのかも知れない。
でも、もっとツナギを削っても(少なくとも僕には)面白いはずなのに、不気味な映画と呼ばれて、そういうところで「怖い」とか「素晴らしい」とかっていう評判が立っていることに、筆者は、少なくとも、苛立っている。だから、「素晴らしい」とは言いたくない。
そういう思いで、半年たってもまだ、「淵に立つ」のことを考えています。
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