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2015年9月23日水曜日

英語の芝居観てて、セリフ聞き取れるんですか?

こうして、UKに来て、芝居のブログ書いてるわけですが、今さらのように白状するが、全部の台詞が聞き取れているわけではない。

もちろん、全部聞き取れる芝居もたまーにある。普通に芝居観てると、聞き取れない箇所は沢山ある。
訛りがきつかったり、早口だったりすると、なおさらである。

聞き取れてても、単語の意味が分からない時も結構ある。
この間エディンバラで観たConfirmationでは、"Heuristic"っていう言葉が何回も出てきて、しかも解らなかった。うー。

芝居への集中度合いによって、聞き取れるモノも聞こえなくなってしまうことも、ままある。

が、これは、負け惜しみと取られても仕方がないが、聞き取れても聞き取れなくても、面白いモノと面白くないモノの区別はおおかたつく。

実際、ネイティブの人だって、全員が全部聞き取れているわけではない。はずだ。
だから、良いのだ。聞き取れなくったって、そういうものとして、楽しんでいれば。

ご参考までに、いくつか例を挙げると、

(1) 1996年、Hampstead Theatreで。とある芝居の幕間で、隣の老婦人に声をかけられて、
「あなた、このお芝居の台詞、意味は全部おわかり?」
「(ギクッ!)い、いや、正直、半分くらいは分かりません」
「そーよねー!私も半分くらい分かんないのよ。難しい単語が出てくるもんだから。」
「・・・」
「でも、良い芝居よね」
その芝居はその後ウェストエンドに進出した。

(2) 1996年、ビジネススクールの授業中(北イングランド出身の先生)、隣のシカゴ出身の同級生から、
「おい、お前、あの先生が何言ってるか、分かる?」
「・・・(ネイティブでも聞き取れないモノを、オレが分かってるわけないだろ!)」

(3) 今の職場でも、実は、時々、上司のNZ人の言ってることが分かんないときがあるのだが、
最近判明したのは、「イギリス人の部下も、時々、分かんないことがあるらしい!」
でも、日本人が聞き取れなくて分からないならともかく、イギリス人として「ちょっと聞き取れなかったんだけど」
とはとても言えず、後から「あれ、何て言ってた?」ってみんなで確認してるらしい・・・

ことほどさように、英語というのは、聞き手に余地を許してくれる言語なのである。
そこは、うまーく想像力を駆使して、切り抜ける。間違ってたら、ごめんね、って言って訂正する。
完璧に分からないと返事できないとか、感想書けないとか、そういうのは、無用の心配と割り切って、ブログ書いてます。

2015年9月15日火曜日

ミッションとしての観劇のこと

今月初め、「観客発信メディアWL」の企画「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」について、若干思うところがあったので、備忘までに書く。

先月、3日間エディンバラまで出かけて、3日間で17本芝居観てきた。
自分としては、観たいから観ているのであって、自分にミッションを課しているわけでも、ノルマを課しているわけでも無い。
「あぁ、これは観なきゃ!」と思う芝居もあるが、それは、義務感というよりも、観なかったときに「あれ、面白かったよ!」って聞いて、悔しい気持ちになるのが嫌だからです。とにかく、面白い芝居は観たい、ということ。

そこには、苦行感もないし、達成感も無い。
喩えるなら、お菓子が大好きな子供がお菓子の家にぶち込まれたようなもので、お腹を壊すまで「幸せな気持ちで」お菓子を食べ続けるだろう。僕もそうです。
そういう意味では、余り前向きで無いかもしれない。「芝居を自分の快楽のために消費している」と後ろ指さされても仕方が無い。
いや、しかし、まずは楽しむことが大事。ミッションとか、妙な使命感持って芝居観る「必要」はない。

でも、実は、ミッションとして芝居を観ることを、否定しているわけではなくて、それを「自分でしなければ」と思ったり「誰かやってくれないだろうか」と思うこともある。
その一つの例が、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」。
こまばアゴラ劇場には芸術監督がいて、制作チームがいて、年度プログラムを何らかのポリシーに沿った形で作って、それにあった公演が上演されている。はず。
でも、芝居の公演について、「アゴラの年間ポリシーに沿ったプログラムだから」観に行く、という人はそんなにいないような気がする。
あるいは、芝居を観る中で、「今年度のアゴラのプログラムはここら辺の劇団とか、ジャンルだから、相当期待できる」とか、「今年のアゴラのプログラムの方向性は自分のテイストとちょっと違ってるから、支援会員になるのは今年は見送る」とか、そういうのもあんまり無いような気がする。
「アゴラでやるんだから、それなりのクオリティは確保されているんだろう」という推測は出来るものの、それ以上に積極的に「アゴラでやってるものだから、敢えて万難を排して観に行く」ということはない。

今では、芸術監督の平田オリザですらアゴラで上演される全ての公演を観ることができないはずで、そういう意味では、
「今、アゴラはどの方向に向かっているのか」を、観客として見定めようとしている人は、少なくとも僕の知ってる範囲では、いない。

更に言うと「何が起きているのか」もなるだけウォッチしないと、「どの方向に向かっているのか」を測ることが出来ない気もする。
当初プログラムに沿って上演が行われても、「上演される芝居が、プログラム策定時の意図を超えた思いがけない事象が引き起こされて、そこから将来に向けた思いがけない動きが生まれてくる」事もあるのかもしれない。毎日劇場に行くことは出来ないけれど、少なくとも、全ての上演についてカバーできたらなぁ、と思ったりする。

なので、僕の希望として、誰か、アゴラの芝居を1年間通して観てくれて、芸術監督のポリシーなり、劇場としての注目分野なりを、観客の立場から認識して、伝えてくれたり、あるいは、小屋主の目の届かないところでアゴラに起きている異変を指摘してくれたりしないかなー、と思っていた。
それを、「こまばアゴラ劇場支援会員2015 演目完全制覇リレー」のミッションとして期待している。

できれば、それは、自分がやりたい。
昔、アゴラに、自らを「下足番」と名乗り、全ての公演に必ず目を通している方が居たことを、僕は知っている。
加えて、アゴラは、自分に人格形成にとって極めて大きな影響を与えた場であって、一種「実家」のようなものでもある。
でも、できないなぁ、って思っていたところに、観客メディア発信WLの企画。

企画に参加している方々、あからさまに好みで無い芝居にも出かけていって、一種ミッション遂行のための「苦行」にも近い時間を過ごすこともあろうけれど、それは、違うレベルで、「アゴラで観る芝居は、今後どうなっていくんだろう?」という興味と、「そういう興味を他者と共有したい」という希望に支えられているものだと信じます。
だから、「アゴラ完全制覇ミッション」、頑張れ。

2010年8月9日月曜日

劇評掲載(手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」、ワンダーランド劇評セミナー)

手塚夏子さんの「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
相変わらず拙いものですが、240cm×270cmという数字にだけはちょっと自信があります。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1361

2010年7月30日金曜日

再び、覇王歌行のこと

水曜日に春風舎に行った帰り、わが敬愛する(そして勝手に人生の師と仰がせていただいている方々の内の1人であるところの)D井さんとたまたま電車ご一緒した。
BeSeTo演劇祭の「覇王歌行」で、俳優が如何にスキもなく訓練されているか、ということに、大変感動した、今回のBeSeToの中で一番よかった、さすが中国4000年、との由。
僕は「なんだか、俳優にねじ伏せられている気がして、特にアゴラのような小さな空間では逃げ場がなくて、なんだか複雑な気持ちです」と答えたのだが、改めて「訓練」について考えた。
それにしてもD井さんが何の留保もなく、掛け値なしにこんなに芝居を誉めているのをお聞きしたのは、(もちろん短いお付き合いだけれども)初めてかもしれない。そして、そういったものに向き合った上で、自分の演技をさらに磨いていくんだっていう気合がみなぎってて、
「負けてられない」
と思ったのだ。「人生の師」に「負けてられない」ってどういうことかって、自分で突っ込みたくもなったけど。

2010年7月18日日曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第8回

03/07/2010

劇評セミナー第8回。全8回のコースの最終回は手塚夏子「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評合評。講師に武藤大祐さんを迎えて。

武藤氏、率直・正直かつ整理されている。整理されているから、整理しきれない部分もとってもよく見えていて(「とっても」という言葉遣いには照れがあるのだそうだが、敢えて使うが)、話を聞いていて引き込まれる。そして、「観る」力だけでなく「読む」事に関しての注意深さもただ者ではないと。

ノート代わりにここに書くと(引用される場合はコピーライト武藤氏です!)
A. 劇評の成分の洗い出し
 (1) 描写
 (2) 問い掛け/問題意識 ⇒作品をどう観るかの視点の設定
 (3) 分析・考察
 (4) 文脈化
 (5) 評価/価値判断
B. 劇評の書き手の立ち位置・スタンスの3類型
 (1) 作者の意図・やろうとしていることは何なのかを書く/読み解く
 (2) 自分視点(に徹する態度)
 (3) パフォーマティビティに関する分析(起きた出来事全体を俯瞰)
C. 劇評が向かう、2つの正反対のベクトル
 (1) 評価する
 (2) 筆者の思想を語る

書き手としてこういう類型に予め嵌まっていこうと考えることはしないけれど、少なくとも「整理されているから、整理されえないものへの視点が開ける」のはここでもよく当て嵌まると思う。

そして手塚氏の作品についての語り。自己言及性が強すぎて、そもそも「語ること」自体が要請されるような、あるいは語るに及ぶような、作品であるかというのが一つの勝負どころ。そういった作品について「書く」ときに、思わず(何歩か)引いた視点で書かないと書けなくなってしまう者、一歩も引かずにドロドロになって書く者、何故かバランスが取れてすっきりと書けてしまう者、それぞれあって、その違いそのものも、「何故そういうスタンスに陥ったか」に関する筆者の説明もすごく面白い。これだけ方法論に拘った作品=「推論」や「妄想力」の餌食になるおかずを取り払った作品であっても、こんなに観方・書き方が多岐にわたるのだ、ということに対し、改めてポジティブに驚く。またしても充実した時間だった。

次の予定があって途中退出を余儀なくされたのだけれど、どうやってセッションが締まったのか、後ろ髪ひかれる思い多々。

2010年7月14日水曜日

劇評掲載(中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」、ワンダーランド劇評セミナー)

中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
この間の青年団「革命日記」についての劇評と同様、ほんとに拙いものですが、僕がどういう風にフランケンズのお芝居を愛しているかについては、多分ちょっとくらいは書いてあるんじゃないかと思ってます。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1330

2010年7月5日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第7回

03/07/2010

劇評セミナー第7回は手塚夏子さんを迎え、自作「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」について語っていただいた、あるいは、分からないこと、感じたこと、自由に語った。「私的人体実験」が抽象度の高い作品だっただけに、受け手としては「イメージ・妄想の膨らみ」を伝えるとともに「種明かし」が欲しい的な興味ももちろんあったわけで、いや、もちろん、種明かし的なコメントも頂いたのだけれど、タネがわかったところで腑に落ちて「あ、そういうことね」とお勉強して終わったりは決してしなくて、それがまた色々な概念・考え・妄想・連想を生み出して、すばらしく豊かな時間となった。

・自分の身体を細かく観察するということ
・「実験」から舞台上に出てくるものを「泳がせておく」ということ
・「観察する自分の眼」と「観察される自分の身体」の表裏不一体、薄膜一枚分引き剥がされる感覚、その薄膜一枚を行き来する情報フィードバックのループの波長の長短と、結果舞台に現れるもののレゾルーションのきめ細かさについて
・現代口語演劇が持つ問題意識との親和性。平田オリザ、多田淳之介、松井周と手塚夏子。演出家・コリオグラファーの手綱の長さとパフォーマーのモチベーション。
・可能性を狭めることと広げること。数多くの可能性を意識しながら、今ここには自分のこの身体、動きしかないということ。
・インターフェースということ。
・舞台上のスピーカーから流れるパフォーマーの声と肉声の音との微妙なずれ、ゆらぎ。それを差配した牛川紀政氏がいかにこのパフォーマンスの肝を掴んでいたかということ。

すげえ。手塚さん、僕が外れたことをいうときちんと「それは違う」と言ってくれるし。こんな会話が午前1時の居酒屋とかじゃなくて、午後3時のアゴラ劇場稽古場、午後5時半のイーグルで交わされているということが奇跡のようにすら思われる。

2010年6月21日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第6回

19/06/2010

劇評セミナー第6回は中野成樹+フランケンズの「寝台特急"君のいるところ"号」合評。講師に小澤英実さんを、サプライズゲストにフランケンズから中野成樹さんと小泉真希さんを迎えて。

小澤さん、とっても魅力的な方で、書いた人から色んなことを引き出すのが実に上手。きっかけ作り、あるいは、きっかけを掴んだところからさらに色々なことを聞き出す手管。本当はご自分で考えていることも色々とおありであろうのに、そういうところに流れていかない態度も実に大人で、感服した。

中野氏も、自分が演出した作品の劇評合評会にいらして、そういうアウェー感たっぷりな場にまずいらしていただけることに感服。そして、終わりごろに仰った(と記憶するが)「ワイルダーの原作と誤意訳との関係」「創り手が舞台に提示した作品と劇評との関係」を対比してみるような態度には、寛容と厳しさが同居していて、それもまた真摯で素晴しかった。

中野成樹+フランケンズの芝居は、一見して「よく考えて創られている」ことが分かるので、どうしてもそれについての劇評も「考えて書かなきゃ」というところに入り込みだとは思う。あるいは、「私はこう思うけれど、じつは創り手はもっともっと考えているんだろう。そこまでは見通せない」みたいないいわけじみたところに落ち込む可能性もある。実際出てきた劇評も割と「考えた、頭のいい」ものが多かったのだけれど、それでもその中にも思いもかけない視点や示唆や、妄想のかけらのようなものが存分に散りばめられて、もっともっと色々と芝居について話がしたくなる。真面目に芝居を語ってみることの効用がまたここにも。

2010年6月13日日曜日

劇評掲載(青年団「革命日記」、ワンダーランド劇評セミナー)

青年団「革命日記」について書いた劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
拙いものですが、ご興味ある方ご覧下さい。書きぶりは拙いが、日頃考えていることは反映されていると思います。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1300

2010年6月6日日曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第5回

05/06/2010

劇評セミナー第5回は中野成樹氏が自作「寝台特急"君のいるところ"号」を語る回。本当にたくさん語って頂いた。一見ランダムに話題を散りばめているように見せながら、実はかなりのところをカバーする感じ。

・中野氏が自分のジャンルの拠り所として譲れないであろう部分=「ブレンドとミディアムテンポ」=「吹奏楽とカシオペア」=人を煽らないスリル。まがい物っぽさ。
「日本ではオケが難しいから吹奏楽で演るしかない」みたいなことを芝居でやること。
・微妙なタッチや息継ぎの合わせ方=芝居の中での細かいところの処理。音楽との合わせ方。カーテンコールの長さ。
・四季のミュージカルを観ながらブロードウェイのミュージカルを想像して泣けること。
プラトンのイデアの話。
・「"君のいるところ"号」は、「ハヤワサ号」ではないこと。でもワイルダーであること。

「カシオペア」という喩えは何だかすごーく納得的だった。それは、中フラが一種極められるであろう場所への期待と、そこに対して僕が(ある程度納得しながら)感じ続けるであろうフラストレーションを同時に表しているように思われた。

セミナー受講生の方に「大学でワイルダー研究してました」という方がいて、これも大変勉強になる。中フラや柴氏の動きを見ているとワイルダーってもっと上演されている・読まれている作家かと思っていたら、意外とそうじゃないんだな。「おはなし」というジャンルが無自覚に日本演劇の(もしかすると世界の演劇の)大きな部分を占めているとすると、まだまだワイルダーの作品は"underrated"なんだな、ということも考えた。

「"君のいるところ"号」のタイトルのつけ方について尋ねる受講生がいなかったのは、一種驚きというか、やっぱりというべきか。あまりにもベタな質問なので避けたのか。アフタートークやったら真っ先に出る質問だと思うんだけど。それも面白かったかな。

2010年5月25日火曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第4回

22/05/2010

劇評セミナー第4回は青年団「革命日記」の合評を水牛健太郎氏の進行で。

・「革命と日常」「集団と個」のような二元論の対比でこの「革命日記」を語ることは、二元論を選びとった時点で平田の術中に落ちている。それでは平田の掌の上を抜け出した視点は提示できない。
・「革命日記」が何についてリアルなのか、すなわち、「2000年代に三里塚のオオカミはありか?」「こんな杜撰な運営はありえないのではないか」という「時代考証」「設定」のリアルさに対する疑問がどの程度「芝居を語る上で」有効なのか?
・演劇は「内容」と「パフォーマンス」の両方を捉えて語るべきなのだけれど、「革命日記」については内容の方へ流れがち。なぜか?
・なぜ青年団の役者の名前は覚えにくいのか?
・平田オリザの「戯曲」の作風が変わってきているという印象について。

うむうむ。日頃考えていることとかぶる部分もあり、新しいこともあり、刺激いっぱい。何より、(1)アルコール抜きで、(2)各人一通りの論点をさらった上で(つまり、イヤイヤながら宿題をやっているのとは訳が違うということ)、(3)正解のないことについて大人の議論ができる、というのは素晴らしい。少なくとも今回はそうだった。脳味噌に心地よい汗をかいた。

2010年5月17日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第3回

08/05/2010

第3回は、松井周・岩井秀人・多田淳之介の3人の劇作家・演出家をゲストに招いたシンポジウム「好きな劇評、困った劇評」。場面場面でもちろん見せ場があって、司会進行の佐々木敦さんも含め大変エンターテイニングな午後だったのだけれど、総じて感じたのは、やはり創り手のお三方にとって「劇評」は「誉める・けなす(佐々木敦流に言えば「価値判断」)」の情報を伝える役割以上のインパクトを創り手に与えていないんだなぁ、ということ。多田氏も言っていたけれど、まだまだ「作品」と「批評」の間にインタラクションが生まれるような緊張感がないのだろう。劇評を書く側(創り手が劇評を書く場合は除く)から観てどうなのかは分からないけれど、少なくとも創り手からみるとまだまだ「相手にせず」みたいな余裕もあったような。

1980年代には「初日通信」があって、そこには「誉める」にせよ「けなす」にせよ、一定の緊張感があったのを覚えている。あの緊張感は、残念ながら、今の新聞劇評やコリッチには見当たらない気がする。

もちろん、劇評がもたらす緊張感と言うのは、「誉められると客が増えたりする」「けなされると客足が鈍ったりする」というのと、いくら目を背けたとしても一定量つながっているので、一種の権力関係を伴う。でも、この匿名でない権力関係が創り手と批評との間の緊張感を担保するのであれば、それは満更悪いことでもないのではないか。そんなことも考えた。

といったところで、一体誰がその権力関係を引き受けるのか?どこまでのリテラシーをアンケート<レビュー<批評のスペクトラムの中で、誰にどれだけ要求すべきなのか?何をもって「プロパー」な批評家と呼ぶのか?プロパーでなければ権力関係に入り込むべきではないのか?考えは尽きない。

2010年4月30日金曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第2回

24/04/2010

第2回は、ダンス・演劇批評家、武藤・佐々木・水牛のお三方を迎えてのシンポジウム「私の考える劇評」。

非常に率直な意見が聞けて小生ご満悦。さらに三人の一致した見解として「批評は必ずしもなくてはならないものではない」というのも率直かつ実は「批評」が依って立つポイントとして非常に重要な考え方だと思われ、それも収穫。

お三方それぞれに「劇評は誰に向けて書いているのか」について自覚的で、よって、「劇評とレビューと感想とはどう違うのか」についての「大体の」線引きができている。そうなると「レビューや感想じゃなくて批評を書け」みたいな注文に対する前捌きが可能だろう。「前捌き」というのは、三つのカテゴリーの間にあるのは明確な線引きではなくて、「大体の」線引きとそのバランスだから。

そういう意味で、佐々木氏の「プロパーの批評家」、武藤氏の「精緻に見ること」「批評とアカデミズムの両立」、といった言い方は非常に面白い。また、言説が「創り手」や「読者」に対してもつ権力性みたいなものへの注意深さも感じられて、大変示唆に富むシンポジウムだったと思う。

一つだけ宙吊りになっているのは、おそらく、野村氏が言っていた「創り手の意図をどう汲むのか」という質問への回答。僕自身は「作品は一旦創り手を離れてしまったら観客・聴衆・読者の妄想・想像力の手にゆだねられてしまうから、創り手の意図なんて、一種、どうでもよいのです」と言いたくなってしまう。でも、ドラマターグとして創り手の周辺に立って観客席も見る渡す仕事をしている野村氏からすれば「いやいやそうはいっても」ということではあるだろう。佐々木氏や水牛氏のスタンスは何となく予想できる気がする(た易いというのではなく、一貫しているという意味で)。武藤氏はどうか?「意図のない、ポイと投げ出しちまう創り手の作品について書く気はない」という彼は、どう回答するだろうか?

これに限らず、チラシの裏に書き付けた断片的なメモを読み返すといろんなアイディアや回答が埋まってて、いやいや、大変豊かな2時間半でした。

2010年4月20日火曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第1回

17/04/2010

平田オリザ、「劇場、劇団、劇評を語る」。
劇場と劇場法のことは沢山語ったけれど、劇評のことはあんまり語らなかったな。

昔「(文芸)評論家とは、馬の尻にたかるハエのようなもんだ」と言った人がいると聞いたことがある気がする。
(その辺の記憶が定かでなくて、馬にたかるアブだったか、牛にたかるハエだったか...)
どうやらそんな扱いな感じ。要は、平田オリザは劇評を「ないと困るもの」と発言したのだけれど、受けた印象としては逆で、平田にとって劇評は「なくてもあんまり困らないもの」なのではないかと感じられた。まぁ、そうだ。彼は世の中に劇評があろうがなかろうが、芸術活動を続けるに違いないのだから。

ただ、一方で、平田の海外(特にフランス)での活動を正当化するための裏付け材料として、平田自身が「誉めてるのかけなしてるのかよく分かんないんですよ」というようなフランスの劇評を使ってきたことは間違いなく、「なくても困らないもの」の効用を利用するのって、どーよ?という気もしないではない。まぁ、それも「いやいや、あるものは使ったらいいじゃない」と返されたらぐぅの音も出ないが。

そしてまた、平田の考える「アーツカウンシル」も、何かしらの言説に「権威」「権力」を持たせる試みなのだろうけれど、彼が一体そこに何を求めているのか(「どう利用したいのか」というのと「何を期待しているのか」の二つの意味で)も、今ひとつすっきりしなかったかな。

武藤・佐々木・水牛の三人の講師陣、こういうところについて一体何を思ったのか、聞いてみたい気はした。

2010年2月4日木曜日

舞台と空間のWS09冬 牛川紀政「音を視る」

03/02/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第五回。
先週の木藤さんの回は、何だか疲れててぐずぐずしていたら満員になっていたのだった。で、今回は思い立ったら予約。コンテンポラリーダンスの音響で大活躍の牛川紀政氏が講師。

「音」の捉え方についての凝り固まったマインドセットを解きほぐして再整理するためのいくつかのレッスンを、エンターテイニングに。楽しみながら。

先ずはマリー・シェーファーの用意したいくつかのレッスンを使って、耳が意識する音の範囲をストレッチ。また、音の種類を絞って、ぎゅっとフォーカスを当ててみることで、聴覚の不確かさと、また、それを前提とした意識の仕方で「音の輪郭」が視えてくるプロセスを辿る。

そうやって耳をほぐしてから、「無音にこだわった動き」をすると、これが面白い。
「特定の動き/ダンス ⇒ それに合った音」
というプロセスをひっくり返して、
「特定の音を前提 ⇒ その音(あるいは無音)を生み出すための動き」
というプロセスがあるんだー、と気がついた瞬間が、まるで騙し絵の「図と地」がひっくり返る瞬間のようで、気持ち良い。

欲を言えば、「ダンサー的な動き」と「音」がドンピシャに出会う瞬間の話とか、音響のプロフェッショナルとして「動きに合った音とは何か」についての感覚をちょっと盗めるようなものがあったらなー、とはちょっと思ったけれど、そこまではとても3時間で行き着けるものではないんだろう。

が、本当に、すーっと気持ちよく、耳の凝りがほぐれて内耳の力が抜けたような気分でアゴラを後にした。気持ちの良くなるワークショップだった。

2010年1月24日日曜日

舞台と空間のWS09冬 野村政之「言葉を融かす」

20/01/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第三回。
「ドラマターグ」野村政之氏が講師。自称ドラマターグの人ってあんまりいない。他称でもあんまりいないけど。

ドラマターグってのは諸条件(作者・演出家・役者・舞台美術家・制作等々)を所与のものとして、その上で無任所の人としてその芝居に関わる人だという前提で。

「所与の」テクストに対する自分の取り掛かり方が、チューニングを変えてみることによってどう変化するかを試すレッスン。
3時間半を越えるワークショップだったにも拘らず、野村氏曰く「やりたかったことの3分の1しか出来なかった」。うむ。確かに。
テクストに対する色んな光の当て方を試してみて、所与のテクストから今まで気付かなかったエッジ、陰影が立ち現われるところまでは(おそらく)到達した。次はそれを現場に晒すことで、どんな化学反応が起きて、何が生まれてくるのか、ということになるのだろう。そこまでは時間が足りなかった。確かに。

僕はかなり興奮した。と思う。どんどんニョロニョロと、周囲お構い無しにいろんなイメージが浮かんできたから。が、それは、
a. 他者のアイディアとどう溶け合うかというのとはまったく別物である
b. 他者から見て面白いイメージかというのとは全く別物である
要自戒。もっと周りを見て。その発見の驚きこそがワークショップの真髄だし、これまでもそうだった。

2010年1月17日日曜日

舞台と空間のWS09冬 杉山至「夕日を見つめるイメージ」

13/01/2010

アゴラ冬のサミットのワークショップ第二回。
舞台美術家の杉山至氏が講師を務めて、「夕日を見つめるイメージ」ときた。

前回の松井周氏とのセッションでは、「言霊」の威力を目の当たりにした。言霊が異界への鍵となり、その異界に「構成員」を閉じこめる呪力を「名付け」が持つという体験をしたわけである。さすが異界をコスプレする男、松井氏である。そこらへんに、テクストから芝居への変換点・結節点の磁場が存在するというのは、言いえて妙だろう。

が、今回の杉山氏はロゴスの人である。そして、実存さんである。なんと、ヴィトゲンシュタインとレヴィ=ストロース、寺山から説き起こして、「言霊以前」の状態を探ろうという、これまたなんと一種無謀な試みである。

「言霊以前」をどう「あらわす」か。
かたちとか光とか音とか身振りとか、色々あるのかもしれないけれど、こと僕自身のことで考えると、どうしても言葉や物語の補助輪無しでは「そっちの方へ向かってみる」ことすら出来ないことを思い知った。ワークショップの他の参加者の方たちが、なんともあっさりと言霊以前のところへ飛び込んでしまうセンス、嗅覚に驚き、敬意を覚える。

いやいやいや、これ、「舞台美術」の人のワークショップだよね。一体何の関係が?うーん。あ、そうだよね。テクストを渡された舞台美術家には、こうやって、言葉の一歩手前を探ってみることも大事なんだね。だって、劇場に入ってきた人たちはテクストより先に舞台に触れるんだもんね。大抵の場合。

こういう機会、すなわち、他人の眼から見た「言霊以前」を、割と「安全な」場で目の当たりにしたり、こういう視座で舞台を腑分けしてみる機会は、なかなかあるものではない。この日もまた、ヘビーな、でも、面白いワークショップだった。

2010年1月11日月曜日

舞台と空間のWS09冬 松井周「世界を名付け直す」

06/01/2010

こまばアゴラ劇場、冬のサミットのワークショップ企画、今年のテーマは「言葉を越えて...」。全6回のうち今回は初回、サンプル主宰の松井周氏を迎えて「世界を名付け直す」。

http://www.agora-summit.com/2009w/ws_butai.html

今回はアゴラ内稽古場に20人が集まって、「名前コスプレ」。続いて、6つのグループに分かれて、グループごとに、一定の名前のイメージに沿って周囲の事物を名付け直していくという、一歩間違えば、いや、間違わずとも、かなり危ない試みだった。

これは危ない。周囲の事物にこれまで「社会の共通の認識として」与えられていた名前を一旦剥ぎ取り、ずれた名前を与えてしまうのだから。要は、色んなものを共有する社会から自分のいるグループを切り離して、一つ新しい小社会を作っちゃってください。ということである。

名付けのプロセスは、「名付けが済んだもの」と「名付けの済んでいないもの」の区別を生み、そこに「内」と「外」、「おれたち」と「彼ら」を生む。名前は自分で付けるものではなく、他人につけられるものだから、そこには一種「権力」もはたらく。

そのプロセスに対して、がーっと一気に入り込んでいくグループ、入り込みきれず既存のロゴスに片足残しながら進めるグループ、捩じれ歪みながらも一つの歪んだ世界が出来てしまうグループ。そういったグループ毎の差異も大変面白かった。

昨年以来、「演劇とは名づけと名乗りのプロセスである」という命題がずっと引っ掛かっているのだけれど、うん、それは、そんなに焦点を外した引っ掛かりではないぞ、という気もしてきた。

2009年12月30日水曜日

2009年振り返り

2009年は僕にとって大変幸せな年でした。収穫の多い年でした。
刈り取って放ったらかしでもなくて、色々な出会いがあったし、種も蒔けた(と思う)。

僕は心狭いから、いっつも一期一会の気持ちを忘れないでいることは出来ないし、
出会う人全てに同じように敬意を抱くことも出来ません。
でも、今年は本当に尊敬できる方々にお会いできたし、相手をしていただいた。

どれくらいお返しできているかは全く心許ないし、情の薄い男で本当に申し訳ないのですが、
今のところはただ、感謝感謝。本当に皆々様に、感謝申し上げます。

2010年(特に6月以降)は2009年ほど勝手放題出来ないことが分かっている。
その分、特に僕の2009年を幸せにしてくれた、ということかもしれない。

印象に残る舞台にも数多く出会えました。「優劣」などとてもつけようがないが、
敢えて2つだけ「特に僕にとってインパクトのあった舞台」を挙げます。
青年団演出部の方々の作品、「りたーんず」の方々の作品は敢えて挙げません。

1. 「着脱式」
人前に身体を晒すこと、人前でテクストを発話すること、観客席にいて身体を眺め、テクストを聴くこと。
それが大変な事件であることを改めて思い知らされた。

2. 飴屋法水「4.48サイコシス」
ここにきて、「4.48サイコシス」の当日パンフの「演出ノート」のことをたくさん考える。
「まちがった時代」「まちがった体」。漸近線の絶望と希望を考えています。

皆様にとって2010年が良い年でありますよう、お祈りいたします。

2009年10月26日月曜日

「チャイニーズスープ」稽古見学

21/10/2009
元祖演劇の元いき座と龍昇企画の合同公演「チャイニーズスープ」の稽古場見学。
これは、なんだか、とんでもなく幸せな芝居になりそうな予感。お奨めですよ。

土井さん70歳台、龍昇さん(たぶん)50台、柴氏20台、(ちなみに作者の平田オリザは40台)。野郎3人の稽古場に40台の中年男参上。丁度本読みから立ち稽古に移るタイミングで、台詞の入り具合、入り方、出し方、曖昧なところの処理の仕方に土井さん・龍さんのキャリアが出て、大変勉強になる。

こういう面子の稽古が「勉強になる」というとなんだか堅苦しいけれど、見ていて、まず、とっても面白い。土井さんのお話がとっても面白い。それだけで十分エンターテイニング。加えて、龍さんのあいのてというかそういうものも面白い。下手すると、柴氏の演出なしでも十分面白い芝居が出来てしまうだろう。いや、もっと言えば、この稽古場見せてもおカネとれるね。

それじゃあ演出はなにすんの?と言われかねないことを意識してかせずしてか、柴氏のコメント・演出プランもガチンコで、まだまだ稽古前半だけれど面白くなりそうな予感たっぷり。そもそも、土井さん、自分より45歳年下の演出家の芝居を楽しんでいる。45歳年下って、僕にはまだそんな人は存在していないので、本当の未体験ゾーン。すげえ。

自分がちょっと関係しているから、というのもあるけれど、こういう芝居こそ、老若男女、幅広い層が楽しめるんじゃないかと思う。若いカップル、お年を召したカップル、昔からの友人、中学に入った子供と2人で、引退した両親と、あるいは家族みんなで。どんな観客を想定しても、きっと面白い。観終わった後、色んな話ができるよ。

http://www.komaba-agora.com/line_up/2009_11/ikiza.html