2016年9月28日水曜日

Into the Woods

06/09/2016 20:00 @Menier Chocolate Factory

1987年初演のブロードウェイミュージカル。今回、米国プロダクションをロンドンに持ち込んだら評判が良くて大入り満員。あんまり評判が良いので筆者も観に行った。
なるほどなるほど、こりゃ面白いや。
魔女に魔法を掛けられて子供が授かれなくなっちゃった夫婦が森に出かけていって、魔女に言われたアイテムを集めようとしたところで、赤ずきんやジャックと豆の木のジャックやラプンツェルやシンデレラに出会って、さあどうなる、っていう話。
前半から音楽や場面転換のテンポも良くて、ぐいっと引き込まれる。で、物語的にも3回転半ひねりが決まったところで、おおーって思って、そこでこれ。
「はーい、それでは休憩を挟んで後半でーす」

え? これで終わりかと思った!

一度そう思ってしまうとなかなか修正が効きにくくて、かつ後半はソロの「長台詞聞かせソング」が多くなって辟易したこともあって、長く感じてしまった。
前半の破天荒な展開を、後半でわざわざもう一ひねりひねって畳んでまとめなくても良いじゃないか、って思ったのだけれど、そういうものでもないのだろうか?

2016年9月27日火曜日

かもめ (Young Checkov三本立)

03/09/2016 20:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品三本立て一日一挙上演のラストを飾ったのは「かもめ」。やはり四大戯曲と呼ばれるだけあって、芝居の作りがとても面白い。
チェーホフの意地悪な視線の確かさとか、それぞれの登場人物のキャラ(一人の主人公に詰め込むんじゃなくて)が人間関係のねじれ、物語のうねりを産み出す様とか、そこから立ち上る、絶望とも希望ともとれる空気とか、そういうものの舞台からの立ちのぼりかたが、明らかにPlatonovやIvanovとは異なっていて、観応えたっぷり。
この三本立て、ラストは必ず鉄砲が出てくるのだけれど、鉄砲の使い方、とりわけ発砲の後処理も、かもめに一日の長あり。また、舞台上に水を張った美術も、この作品で最も生きていた印象。

このプロダクションは、もちろんDavid Hareの解釈に沿って輪郭が取り直してあるのだけれど、
トリゴーリンの「自らの空虚の自覚」「全てを自分が書く小説に取り込んでしまう視線の在り方」(= Death or Glory, Becomes Just Another Storyなんだよなぁ)や、
あるいは、マーシャがトリゴーリンのメモの世界に取り込まれない「我」を終始保ち続ける様、
あるいは、ニーナが最後のシーン、舞台脇のぬかるみを力強くジャブジャブ踏んで退場していく様、
その辺りが、特にこのプロダクションではよく見えた。

特に、ニーナがラストに見せる力強さ。至高の芸術にはとても辿り着きそうにないが、力強く、泥臭く女優を続けていくためにジャブジャブ水を踏みしめて退場するその一歩一歩が、少なくとも旅の終わりにどこかに辿り着くための一歩のように見える。一方的に「かわいそうな哀れなニーナ」で終わっていない。
表面上成功しているように見えていても、神経質に並べられた原稿のように吹けば飛ぶような自我が壊れるのを待っているトレープレフとは対照的で。

イリーナ・トリゴーリンの「行かないで」のシーンは、「そこで脚つかんで引き倒しますか!」っていうダイナミックな動きで吉ではあったが、角替和枝さんのあのダイナミックかつねっとりしたイリーナにはちょっと及ばず。でも、端正に、かつ輪郭にメリハリも効いて、上質のプロダクション。8時間弱の一挙上演を飾るに相応しい芝居だった。

Ivanov (Young Checkov三本立)

03/09/2016 16:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品一気上演、2本目はIvanov。これも初見。

「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 がイワーノフの過去として示され、
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」へのチャンスもそこに示され、
で、そこで起きる現実の反応は、

「理想に燃えて始めた田舎での事業が破綻してしかも妻が病気になって困窮する中で、
金持ちの娘から求愛されて、あぁ、これで病気の妻が死んでしまえば再婚できておカネも楽になる、そうなったらなぁ、と思いながら、
そんなことを考えてしまう自分が嫌で嫌でしょうがない、
でもそんな自分を憎む上から目線の自分すら嫌で嫌で、
しかもそれじゃあ他にしようがあるのかといえば、どんな打開策も開き直りも見せずに、出口を自ら切り開く努力を放棄して、
あぁ嫌だ嫌だと自己嫌悪の中でただただ自閉していく、目に見えて困ったちゃんな態度」

である。
プラトーノフと同様、理想と上っ面の現実の相克を主人公一人に負わせて、周囲の人物については、吝嗇な金貸し女も、その夫で物わかりの良いインテリ都会人も、インテリに憧れる娘も、その周囲のあんまり深く物事を考えていない風の人たちも、それなりにキャラ付けしているもののおしなべてイワーノフの内部に切り込むこともなく、その鏡となることもなく、
結局はこの芝居、最初から最後までイワーノフの内部の悩みがイワーノフの中で自己完結して、
まぁ、どこにも行かないんだろうなぁと言う物語の行き先が当初の設定から運命づけられていた。主人公オーバーストレッチ。周囲は添え物。

いや、イワーノフには世界がそのようにしか見えていなかったのだし、そのようにチェーホフは描きたかったんでしょう、という向きもあるだろうけれど、
筆者はそうは思わない。
だって、後年、そうした相反するモチーフを複数の登場人物に負わせて、芝居のうねりを生み出す芝居を、チェーホフ自体が書いて、四大戯曲として後世に残したじゃないですか。

2016年9月24日土曜日

Platonov (Young Chekhov三本立)

03/09/2016 11:45 @National Theatre, Olivier

昨年夏、Chichesterのフェスティバルで上演されなかなかに好評だったチェーホフ初期作品群三本立て上演。 David Hareの脚色が入って、Platonov、Ivanov、かもめ、の三作品。この土曜日は一日のうちに三本立て一気上演、ということで、それぞれ2時間45分、2時間30分、2時間30分、合計8時間弱を同じ劇場で過ごす(おそらく平均年齢60歳超の)勇者達が朝のうちからNational Theatreに集結。

筆者はPlatonovとIvanov未見。かもめは色々なプロダクションで観てきたけれど、好きなのは、中野成樹+フランケンズの「ながめみじかめ」と、角替和枝さんがイリーナ、柄本明さんがトリゴーリンを演じた東京乾電池バージョン。さて、どうなる?

で、Platonovである。まず思うのは「上演されないのにはそれなりの理由がある」ということか。四大戯曲に比べると、物語の重層感に欠ける印象。
チェーホフ芝居のモチーフとして出てくる
「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 と
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」
の2つを、この戯曲では、プラトーノフ一人(大学生の頃の情熱と、情熱は枯れたが性欲と機知は枯れない今日この頃)に負わせて、その2つの資質の対立関係を使って物語を駆動していく。
最後はもちろん破綻して終わるわけだけれども。

今回のプロダクションではJames McArdleが調子の良い伊達男を好演。冒頭、川の中をジャブジャブ歩いて登場してきた姿は確かに格好良い。前半の伊達男ぶり、口八丁手八丁から始まって、中盤の気持ちのぶれ、後半の「何でオレはこんな目に遭わにゃならんのだ?」に至るまで、安心して観ていられた。

観ていられたのだけれども、実はその「何でオレ?」っていうところが、観ていて苦しいところでもある。
この戯曲では、プラトーノフ本人が「何かに苦しんでいる」のにも拘わらず、そこに本人が自らメスを入れて切り込んでいく契機が与えられていない。いや、本人には見えてなくて一切構わないのだけれど、なすすべもなくプラトーノフが窮地に陥る様が、一種「自業自得だこのやろう」的な部分もあって、放っておくと、ただのドンファンものになっちまわないかい?という懸念がある。
最後は「ざまあみろ」ではなくて、「分かっているけど止められない」「前を向く契機はあった、少なくとも気づきのようなものはあったのにも拘わらず、そのように終われなかった」
ぐらいなことはあっても良いんじゃないかなぁ、と思ってしまう。少なくとも、モチーフの間の軋りをプラトーノフ一人に負わせるのであれば。

2016年9月21日水曜日

E15 (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 18:30 @Summerhall

今年もLUNGはやってくれた。去年のエディンバラで最も心に残った芝居、The 56では、ブラッドフォードのフットボールスタジアム火災を題材にしてノックアウトパンチを放ってくれたのだが、今年は、E15で、自分たちを公営住宅から追い出そうとするカウンシルに立ち向かうロンドンのシングルマザーを描いて、これまた素晴らしい。去年のパフォーマンスがラッキーパンチではなかったことが存分に分かって大満足だった。
(昨年のThe 56について筆者はこんな風に書いている:
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/09/the-56-edinburgh-fringe-festival-2015.html)

実際にE15の会場に入るまで、これがLUNGによる公演だと認識していなかった。開演前に、昨年The 56に出ていたBilly Taylor(彼は本当に、一度観たら忘れられない良い役者なんだ)がチラシを配っていて、あれ?と思ったのだが、芝居が始まってから、「去年のThe 56の役者がもう一人出ているじゃないか」っていうので気がついた次第。アンテナの低さを恥じるとともに、自らの幸運を思う(いや、本当はもう一人、合計3人、去年のエディンバラでのキャストが全員出演していたことが、後で分かる)。

Verbatimでは、台詞が実在の人物の発言やインタビューを元に(というか、ほぼ忠実に)書かれているから、そこに作家の勝手な物語が入りにくい仕組みになっているのが魅力のポイント。
ところが一方で、ニュース番組やドキュメンタリーと同様「編集」作業は必ず入るし、むしろ、その出来不出来によっては、学芸会の発表みたいになってしまったり、アジ演説じみてしまったりするリスクも相当高い。

昨年のThe 56はその点、題材を極めてデリケートに扱いながら、かつ誠実に書かれていて、だからこそ体重の乗ったパンチが客席に届いていた。
ところが、今年のE15は、そもそもが、カウンシルのオフィスの前でデモを打ったり、公営住宅を占拠してしまったりする芝居である。アジ演説じみるどころか、「アジ演説」の台詞をそのまま持ってきて舞台に載せるのだから、題材としては相当にリスクが高かったはずだ。舞台上でアジ演説してメッセージを伝えるくらいなら、「むしろ街頭に出ていってやってくれ!」と思われるのがオチだから。

この公演は、この、「公開プロテスト芝居」のコアにあるメッセージを保ちながら、明るく、エンターテイニングに、カラッと、「芝居」として成立させていた。昨年のThe 56が「静」だとすれば、今年のE15は「動」。若い役者達が若い母親達を演じ、アジ演説もうまく取り込んで芝居を壊さず、楽しく観させていただいた。
でも、これ、シングルマザーが子供抱えて住む場所を奪われる、っていう、実はすっごくキツい話だし、楽しいだけじゃなくて、すごくキツい政策の貧困を激しく糾弾している。
いや、だからこそ、カラッと仕上げることで、最後に、自治体の糾弾よりもむしろ
「何かしら一つ、力を合わせて行動を起こしたことで、良くなったことがある」
という、希望に繋がりうる事実を語り伝えることに成功していた。
この、LUNGの人たちは、怒りで目が曇らせず、素晴らしい上演に仕立てることが出来る、すっごい人たちなんだなぁ、と改めて思った次第。

Heads Up (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 15:55 @Summerhall

今年のエディンバラで大変評判が良く、全回売り切れ御礼のパフォーマンス。この日に追加上演が決まって、すかさずチケットゲット。しかし、連戦の疲れと「2人称独り語り」という風変わりな語り口、割と早口のKieran Hurleyの英語についていけなかったこと、そうした要素が組み合わさって、正直、全くついていけなかった。

ロンドンに帰ってきてからいろんなレビューでチェックしてみたら、なんと、この芝居で、Hurleyは、4人の登場人物を語り分けていたのだそうだ。
シティのデリバティブズトレーダーの女性
ロンドンの持ち帰りコーヒー店で働く男性
コカイン中毒で、妻が出産予定日を迎える男性
裸の写真がボーイフレンドによってネットにばらまかれたティーンエイジの女の子

すみません。僕の中ではシティのトレーダーは奥さんが出産予定日で、コカインでヘロヘロになって職場を出て行ってしまったし、家に帰ればシム・シティばっかりしているし、というように聞こえてました。持ち帰りコーヒー店のアブドゥラは聞き分けがついたけれど。アッシュが女性だと知ったのは芝居が終わった後。

ふう。

こんなこともあるか。

お話としては、ある日、ある、変哲のない、皆がストレスを抱えて、まるで世界の終わりのような気分で暮らしをしているときに、本当に世界の終わりが来てしまう、という話である(と、僕は思う)。全編を通して感じていたのは、RadioheadのJustのPVの世界で、おそらく、この、”you”を使って語りかける話者は、どこかのビルの寂しい部屋に一人居て、そこから、いろんな人の寂しい物語を追いかけていたのじゃないだろうか、ということ。どうだろうか?英語のネイティブスピーカーが、芝居の語り手から”you”で語りかけられたときに、その物語をどのように受け取るのだろうか。再び観られるチャンスがあったら、是非挑戦してみたい。

2016年9月20日火曜日

Anything That Gives Off Light (Edinburgh International Festival 2016)

26/08/2016 12:00 @Edinburgh International Conference Centre

スコットランド人俳優2人とアメリカ人女優1人がスコットランドを旅して回る話を、女性4人で構成されたバンドが生演奏でサポートするロードシアター。

ロンドンでビジネスマンとして働くスコットランド人、生粋のアメリカ人だが、遠戚を辿れば必ずスコットランドのどこかにルーツを見いだすことの出来るアメリカ人、スコットランドで生まれ、そこで暮らすスコットランド人。その3人が出会ったときに、スコットランドとは何か、アメリカとは何か、移民とは何か、そういうものが見えてくる.
んじゃないかなー?
というのがこの芝居の狙いだったと思われるが、「スコットランドあるある」や「勘違いアメリカ人あるある」が前に押し出されてしまい、「ご当地ドラマ」からもう一つ大きな風呂敷を広げられない、あるいはもう一歩掘り下げられないままに終わってしまったのは勿体ない。

百歩譲って「スコットランド人同士がスコティッシュで普通に喋ったら、筆者にはついていくのが大変だった」というのは、事実として認めざるをえない。だから、細かなニュアンスが追い切れなかったことは疑いようもない。でも、それを上回って前半のアメリカ人対スコットランド人のやりとりは大雑把な「あるある」になっていなかったか?いやむしろ、ウェストバージニアの小さな町を抜け出してきた彼女が、着いたばかりのスコットランドでなんの差し障りもなく会話に入っていっちゃったことに、(やっかみ半分以上入ってるが)驚きを感じたり。

19世紀ハイランドのクリアランスと、21世紀アメリカの鉱山開発自然破壊を、うま—く繋いで3人の気持ちを近づける、あるいは観客の視点から見たスコットランドとアメリカをグイッと近づけようとする試みは、悪くはないけれども、それも、きっと、現代を生きている3人の関係がもうすこし上手く見せられていたらもっと効果的だったのではないか、って思ってしまう。

コンファレンスセンター、という、劇場に仕立てるのにはちょっと広すぎて、冷たい感じのする空間で上演されたことも影響していたのかも知れない。当初のプロダクションの目論見には沿っていたものの、いわゆるプロデュースものの芝居にありがちな「互いの遠慮」が出てしまったのかも知れない。それにしても、中途半端だったなあ。